午前中のスタッフ・ステーションは、今までにないほどの罵声が飛び交った。


 いや、飛び交ったんじゃない。


 一方的に飛んだだけだ。


 アネさん医長が大暴れ。





 スタッフ・ステーションに理事長がやってきた。


 わたしが、先日、死亡判定を出し、彼が生きていることを確認して、死亡判定を取り下げた患者さんのことだ。


 一度、ベッドが空いたと新患に連絡をしながら、取り消したのが悪いと言う。


 たしかに理事長の言うとおり、全面的にわたしが悪い。


 アネさん医長は細かい理由を述べずに、理事長のネクタイを引きずり寄せ、


 こう言った。


 「キャンセルして何が悪い。空くはずのベッドを使っている患者さんは、死んでいなかったことが判明したんだ。ベッドを使っていて何が悪い。ベッドを空けるために、生きている人間を殺せと言うのか?ここはどこだ、病院だろう。それも長期療養型有床病院だろうが。もし、その新患の容態が通院では思わしくないのなら、副院長から連絡があるはずだ。それとも、あれか。おまえの知り合いで袖の下をたっぷりといただいたのか」


 「いや、患者さんのためを思って、わたしは、その」


 もう、蛇に睨まれた蛙だね。


 「患者さんのため、か。よく言ったもんだな。現在、入院加療中の患者さんも、新患も、患者さんに変わりはないんじゃないのか?」


 「し、しかし、回転率をあげないと」


 「回転率。回転率と言ったか。長期療養型有床病院でなんで回転率を上げる必要があるんだ?新患に言え。そんなに待てないのなら、他の病院を当たれ、ってな」


 アネさん医長は胸を押し返すような感じで、理事長のネクタイを離した。


 わたしが原因で始まったケンカだ。


 わたしが謝らなくてはいけない。


 「あの、わたしが死亡判定をミスしたために、起こってしまった」


 「志村、巡回の時間だ。行ってこい。ここでぐだぐだ言うヤツにつきあっていても、何の進歩にもならない。はやく行け」


 「はっはい」


 わたしは巡回に出た。


 スタッフ・ステーションに残された医師は彼、一人だけ。


 現在、担当患者は1人。その他は緊急を要する時にだけ呼び出される。


 スタッフ・ステーションでの、聴きたくない会話もすべて耳にはいる。


 それを聞き流すのも辛いよね。





 巡回から戻ってみると、理事長はもう消えていた。土俵際まで押し捲って、アネさん医長の押し出しで決めたんだろう。


 アネさん医長にとっては、いつものことだ。


 アネさん、わたしのために、あの


 「志村。おまえは間違ったことをしたのか?」


 生きている患者さんに対して死亡判定を出して


 「おかしな予感に襲われて、しばらくたってからもう一度確かめたら患者さんは生きていた。それだけのことだろう。注意深く観察した。偉いよ。わたしも勉強させてもらった」


 それは、わたしの


 「志村。おまえ、いい先生を持ったな。講習料はタダなんだろう。今は塾の講習料が家計を圧迫して破産に追い込まれる世の中だ。大切にしろ」


 アネさん医長、すべてを知ってたんだ。


 彼は何も言うはずがない。


 自分でアリバイを作ったんだから。


 人の功績まで自分のものにしたりもしない。


 出世なんか、まったく興味がないんだから。





 ヲタク副医長が巡回を終えて、戻ってきた。


 「もう少しで、楽しいことが起こる日だな。きょうは楽しい月曜日」


 「今週もCTを撮影したんですか?」


 彼がびっくりして訊いた。


 「オペで全摘出したのに」


 「あっ、そうだった。今、撮影を止めさせる」


 ヲタク副医長は慌ててCT室に連絡を入れた。


 「・・・・・・遅かった。もう撮影したのか・・・・・・・そうか、もうじき病室へ戻るな。いや、一応、回して」


 あっ、先週、アネさん医長をおかしくした、彼の天才的なオペの。


 「撮ってしまったものはしょうがない。まあ、再発の恐れがあったから、にでもしておけ。多分、あれだけとことん剥がしたら、再発の可能性はゼロだ。たまに健康な人のCTを視るのもいいだろう。目の保養になる。それから、おまえはもう担当医じゃないんだから、勝手に指示を出すな、頼むよ」


 そうだよね


 わたしたち医師は、いつも腫瘍のあるCTしか見ない


 だから、時々、健康な身体の中ってどんなものなのか、わからなくなる


 少年がスタッフ・ステーションの前を通り過ぎ、また戻ってきた。


 「CT、終わってきました」


 彼がカルテを受け取った。


 「お疲れちゃん。また階段を使ったのか?」


 「ただ、ゆっくりと歩いてきただけだよ。走ったりはしていない。歩くだけでもトレーニングになるからね。いつからリハビリ室を使えるの?」


 少年は彼に訊いた。


 「きょうの午後の回診の結果を見て決める」


 「頼むよ」


 「頼まれたよ」


 ほほえましい会話。


 わたしには、それがうまくできない。


 人の心にすんなりと入っていくことができないんだ。


 彼を見てると、やっぱり不思議ちゃんにしか見えない。


 


 しばらくして、少年のCTがあがってきた。


 「こんなきれいな状態でなんでCTを撮る必要があるんですか?ウチは忙しいから、こういうのはできればはずしたいんですけどね」


 技師は言った。


 「ごめんね、たまに目の保養がしたくなったんだ」


 アネさん医長は平然として言った。


 「目の保養ってね、CT室を何だと思っているんだ!」


 怒った医師をアネさん医長は睨み返した。


 「今度から気をつけてさいよ」


 CT技師はおとなしく引き下がっていった。


 


 さっそくCTをライト・ボックスにかけたところ、まるで人体模型を切り取ったかのような、何の異常も認められない画像だった。


 癌患者さんの、いわゆる腫瘍のあるCTしか視たことのないわたしたち医師にとっては新鮮でもある。


 アネさん医長は、目を近づけ、ライト・ボックスに張り付いてこまごまとしたところまで視た。


 「これは心臓だろ。これが肝臓、脾臓、胃、そして肺。たしかにきれいだ。CTのお坊ちゃまが怒るのも無理ないな。肺か。ほんとうにぶどうの形をしてるんだな。あー、ぶどうが食べたい。早く秋にならないかな。やっぱり、ワインだな。飲みたいなー」


 ちょっと興味の対象がずれてると思うんですけど。


 「これだけきれいなら、ピッチに立てそうだな、あの少年。がんばれよ、月10万円」


 ヲタク副医長は彼に声をかけた。


 でも、言葉の最後の、月10万円って、なに?





 院長がスタッフ・ステーションに現れた。


 「それじゃあ出かけるから後は頼みます」


 登山スタイル。


 あー、また病気が始まったのか。


 別に院長がいてもいなくても、この病院は回るからね。


 整形外科には優秀なドクターもいるし、大丈夫、安心して遊んでおいで。


 登山って、女性にはわからないロマンがあるんでしょう。


 アネさん医長は征服欲だというけど、それもまたいいじゃない。


 彼にはたったひとつないものだから。


 「院長、お願いを訊いていただけるんですか?」


 彼が突然しゃべった。


 「うん。あたりまえだ。オレ以外に適任者なんていないだろう」


 「ありがとうございます」


 「なぜ、危険を冒して登るのか、と問われれば、私は答える。そこに山があるからだ、と。全盲少女の夢、オレががっちりかなえてやるよ」


 なんの話?


 「ああ、ぼくは失礼だと思ったけれど、院長にお願いしたんだ。24時間TVのアタックで、イモトアヤコと全盲少女が、キリマンジャロの縦走登山をする。その、日本テレビ登山隊のアドヴァイザリー・スタッフとして、院長に参加してもらうことをお願いした。


 何度もキリマンジャロに登った経験を持っているしね。全盲少女は過去に津軽海峡を泳いで渡り、昨年はトライアスロンにチャレンジして成功した。


 今年はいよいよキリマンジャロ縦走登山だ。


 イモトアヤコは過去に1度、『世界の果てまでイッテQ』でキリマンジャロ登山を成功させている。


 でも、縦走だし、たった1度の経験だけで、全盲の子を導いてのキリマンジャロは難しいアタックになる。あの山は天候が激しく変わることで有名だからね。


 登山の模様は8月20,21日ハイビジョンで現地から生中継される。


 「人のためにつくすのはいいことだ。病院にとっては不必要な人間だし、少女のためにもなんとしても成功させろ。そのためならおまえの命なんかどうだっていい」


 アネさんの、院長を送る言葉には、涙があった。


 きついことを言うのは口だけだ。


 ほんとうはヒューマニストなんだ。


 でも、それを素直に表に出せない。


 年代的にはそうだと思うよ。


 


 彼はポケットの中から、自分の携帯を出し、連絡を入れた。


 「ただいま、院長が出発しました。ご成功をお祈りします。それでは」


 


 午後回診では、アネさん医長は迷わず、少年に明日からリハビリ室の使用を認め、彼も同意した。


 あとは、月10万円の意味だ。


 彼が自分から口にするまで、だまっておこう。





 それにしても、彼の髪型が問題だね。


 バプテスマで、髪型が変わってしまった。


 わたしは安曇班長じゃなきゃ嫌。


 それに、髪の毛を前に降ろさないと、カリフラワー状の、ベーチェット病の傷が見える。


 いつか、彼が見せてくれた、東宝特撮映画の変身人間シリーズ『マタンゴ』の怪人と似ている。


 仕事終わりに美容院に連れて行き、また、安曇班長に戻した。


 うん、似合うよ。


 まさに医龍だね。


 白衣を着たらそっくり。




 きょうは結婚記念日。彼から素敵なプレゼントをもらった。


 腕時計型ハートレートモニター。


 心拍と脈拍が表示される、医療機器。


 腕時計型のものはテニスとマラソンで使うという。


 タッチパネルになっていて、触れることで時計と切り替わったり、心拍だけを大写しにしたり、脈拍だけを大写しにしたりできる。


 チェストベルトモついているが、腕のほうがテニスには使いやすいという。


 マラソンの高橋尚子選手は、シドニーオリンピックで、このハートレートモニターを使っていたという。


 「あのねー、Qちゃんはねー、かけっこが大好きだからねー。かけっこするのが楽しいーんだよねー、はっはっはっ。もう一杯あるかなー」


 小出義雄監督の真似。


 なんでこんなに物まねがうまいの?。


 いっそ芸人になったら?。


 そうしたら、憧れのおかもとまりさんにも会えると思うよ。


 それにしてもおもしろすぎる。