きのうの記事でお約束した、彼のオペ。

 すごかったよ。

 とにかくてきぱきとしてるし、時間的にもものすごい速さ。

 新幹線よりも早い。

 彼がオペ開始を宣言してから、終了を告げるまで、2時間10分。

 新幹線だと、東京ー京都くらいかな。


 手術室では、これまで何度も困難な手術に立ち会ってきたベテランの中のベテラン看護師を揃えていた。

 手術室長は彼のことを、生まれた頃から憶えていて、家族同士のつきあいのある人だからなのかもしれないけど、とにかく生え抜きのスタッフを用意してくれた。

 麻酔部は部長がきている。

 わたしがオペを行うときにも、これだけのスタッフを揃えて欲しいな。


 彼が、術着を着て、超薄いオペ用のゴム手袋と、髪の毛をすっぽりと包むビニール・ハット姿で手術室に現れた。

 今まで見たことのないくらい颯爽としてる。

 見掛け倒しってこともあるしね、ってそのときは思ったよ。

 次にしたことがまた変わっているんだ。

 スタッフの一人一人に丁寧に頭を下げて歩くんだ。

 スタッフより医師の方が格上だから、普通はそんなことはしないんだけどね。

 アメリカではそうするのが礼儀なのかな?。

 そして、もう一度麻酔科医の元に行くと、なにかしら会話をして、いよいよ手術台に横たわっている患者の元に立った。

 「それではオペを開始します」

 開始宣言。

 そこからが、もう。


 「メス」

 手術室長が手渡したメスで、器用に患部を露出させるために、胸部を切開。

 それからが新幹線手術。

 次々とメスの種類を取替えて、腫瘍を剥がしにかかる。

 わたしは一部始終をみたくて、まばたきをしないように自分に言い聞かせた。

 だって、まばたきをしたら、もう次のフェイズに移っているんだもん。

 また、速いのに丁寧なの。

 きれいにほんのわずかも残さないで剥がしていく。

 若い患者さんだから、腫瘍も剥がれ難い。

 勢いがあるというか、とにかく表面的に侵すのではなく、完全に根をはるような感じって言えばいいのかな。

 それをメスだけで、ものすごいスピードで剥がし取る。

 驚いたのは、剥がした腫瘍が原形をとどめているってこと。

 別に、これから臨床検査部に廻すわけじゃないから、切り刻んでもいいんだよ。

 原形のまま臨床検査部に持ち込むと、検査部が病棟に殴りこんでくるから。

 そして、アネさん医長がいわれのない罪で謝罪することになる。

 経験者だからわかるよ。

 いわれのない罪で謝ったのは、あのときが人生で最初だ、って言ってたから、この腫瘍を持ち込めば2度目。

 たぶん、今度は「おまえたち夫婦は」って言うよ。

 いよいよ肺胞部の腫瘍を剥がすときがきた。

 ギヴ・アップかな。

 患者さんの頭のところにいたアネさん医長が、彼の横に動いた。

 彼の手が止まった。

 ここまで、よくやったよ。

 午前中にいきなり、午後からの執刀を命じられたんだ。

 こんなにきれいに剥がせただけでも神業。

 恥ずかしいことなんかない。

 ところが、大きなくしゃみをひとつすると、また手を動かしだした。

 アレルギー性鼻炎だからね。

 それも、眠気が怖いからといって、昼食後の薬は飲まなかった。

 いよいよ肺胞部にまとわりついた腫瘍にメスが入った。

 アネさん医長がかわいそうだよね。

 せっかく交代しようと思って移動したのに、袖にされてしまった。

 プライドずたずただよ。

 夕陽に向かって叫ぶよ。

 曇天で夕陽は出ないだろうけど。

 スライディングをするのにも、雨は降ってないしね。


 一番危険な部位にメスを当てているのに、スピードは全く落ちないの。

 ものすごく微妙な角度でメスを入れてる。

 病院の顔剃りみたいに完全に刃を寝かせているわけじゃないし、かといって立ててなんかいない。

 立てたら最後、肺胞は破裂して、ご愁傷様です、だから。

 刃が肺胞に当たっているかもしれないし、いないかもしれない、って彼は表現するだろうけどね。

 メスってこんな角度でも使えるんだ。

 彼はサウスポーだから、当然メスも左。

 見ていると危なっかしく感じるんだ。

 あーあ、肺胞部の腫瘍を完全に剥がしたよ。

 腫瘍はまだ原形を留めている。

 

 これからは無理じゃない?。

 肺胞を包み込んでいる腫瘍。

 アネさん医長にバトンを渡した方がいいよ。

 「ここからがちょっとやっかいですね。それでは、いきます」

 やるの?。

 失敗したら大変なことになるって。

 病院を巻き込むよ。

 あー、メスが入っちゃった。

 ベテランの呼吸器外科医でも手が震えるところだよ。

 あっ、剥がれてきた。

 ウソでしょ。

 悪い夢だよね。

 「ミラー」

 手術室長が彼に、長い柄のついた丸いミラーを渡した。

 角度がついていて、見えやすいんだよね。

 「すまないけど、患部に当ててくれる?」

 わたし?。

 もちろんだよ。

 そのための前立ちでしょ。

 医学生の見学じゃないんだから。

 夫婦何度目の共同作業かな。

 わたしは極力、彼の見やすいように、そしてメスの邪魔にならないようにミラーを当てていた。

 「いいよ、その調子」

 ありがとう。

 素直にうれしいよ。

 

 「さて、あと一息ですよ。みなさんお願いします」

 彼が叫んだ。

 始めっからまったく、メスのスピードは落ちていない。

 一番デリケートな部位なのに。

 「よっしゃ。メリーランド剥離鉗子があったらお願いします。なければマイクロでかまいません」

 剥離鉗子っていうのは一種のはさみ。

 先端がまっすぐなものと曲がったもの。

 それぞれの中に数種類ずつある。

 彼の言ったメリーランドっていうのは先端が曲がっていて、ピラニアの歯のように鋭く尖ったギザギザの刃がついている。

 マイクロは、簡単に言えば、メリーランドの先端がまっすぐで刃先が短いもの。

 メリーランド剥離鉗子を要求したということは、腫瘍の99%以上を剥離し終えたということ。

 最後に剥離鉗子でぶら下がった状態の腫瘍を患部から切り離す。

 それでオペは終了。

 手術室長が慌てて、用具を入れてある、赤外線放射式の棚へ走り、引き戸を開けて、メリーランドを取ってきて、彼に渡した。

 「ありがとうございます」

 普通、医師はいちいちお礼を言わないんだけどね。

 でも、いいことだよ。

 それでこそ、スタッフの絆が強くなってオペの成功率を高める結果を生むんだと思うよ。

 お礼を言われた方は悪い気分はしないでしょ。

 手術室長は、お礼を言われたのが初めてだから、ちょっと顔を赤らめていたけど。

 受け取った彼は、大胆に剥離鉗子で腫瘍を患部と切り離した。

 公共工事の竣工式のテープカットみたい。

 時々、切れなくて恥ずかしいことになるんだけど。


 「回収袋お願いしまーす」

 手術室長はわたしに回収袋を渡してくれた。

 花を持たせてくれたんだね。

 彼はわたしの差し出した回収袋に腫瘍を入れた。

 回収袋といっても、虫取り網みたいに柄がついてるんだ。感染症なんかのときのためだって教えられた記憶があるんだけど、間違っていたらごめんね。

 彼は再びメスを握り、患部に残ったわずかな腫瘍まできれいに剥がした。

 まるで、健常者の肺そのものだよ。

 「把持鉗子の無鉤と縫合補助鉗子お願いします」

 手術室長が手渡した2本の器具を器用に操って、彼は切開した胸部を縫合した。

 縫合補助鉗子でまず、針を貫通させ、把持鉗子で針を引っ張りあげる。

 それを繰り返して切開部をきれいに閉じた。

 「消毒をお願いします、志村先生」

 はいはい。

 すごいものを見た興奮は抜けきらないけど、しっかりと消毒はしますよ。


 わたしが消毒を終えると、彼は宣言した。

 「これにてオペはすべて終了しました。みなさん、ありがとうございました」

 それから、彼はまた、スタッフのひとりひとりに丁寧にお礼を言って、手術室をあとにした。


 なんか、違うな、って思った人はいるかな?。

 肺って、肋骨に覆われている器官なんだよ。

 肺の手術って、一般的には肋骨を何本か切断して行うんだ。

 彼は1本も切断しなかった。

 患者さんの腫瘍が比較的、肺の上部にあったってこともあるみたいだけど、マイクロスコープの画像をガイドにしながら、ものすごいスピードで進めていくの。

 片方の目はマイクロスコープを、もう片方の目は患部を捉えているんだろうか。

 彼に訊いても、

 「ぼくはそんなに器用じゃないよ」

 って、笑うだけ.

 これからのこの病棟の発展のために教えて、って、いったんだけど、笑っているだけ。

 得意のすねたふりに出た。

 すんなり引っかかったよ。

 マイクロスコープは両方の目でしっかりと見てる。

 画像を瞬間的に目に焼き付けて、患部を見ると、画像が重なる。

 って言われても、真似できないし。

 「慣れればできるよ、誰にでも。不器用なぼくができたんだから」

 そうか・・・・・・まあ、がんばってみるよ。

 アメリカの病院では、なるべく患者さんに負担をかけないような手術が行われているんだって。

 だから、肺の手術でも、可能な限り肋骨の切断は避けて、マイクロスコープを用いる。

 それで、慣れていたんだ。

 きょうのメスさばきは?

 「あれは、脳腫瘍の方法を応用してみたんだ。脳も肺と同じで、ほんのわずかな傷をつけることも許されないよね」

 なるほどね。

 脳腫瘍はウチの父親の分野。

 彼がその技術を肺癌に応用したと知ったら、また付け上がるだろうね。


 ところで、アネさん医長がおかしくなったんだ。

 わたしをつかまえて、

 「おいっ、志村。つい今しがたまで、わたしはどこにいた?」

 手術室ですよ

 「何のためにそこにいたんだ?」

 執刀医がギヴ・アップしたときのためのヘルプです

 「それをわたしはやったのか?」

 いえ、執刀医がギヴ・アップしないで、オペを終えたので、手を煩わせることはありませんでした

 「そうか。なあ、志村。医者は派遣社員か?。いらなくなったらポイなのか。世の中冷たいな」

 いえ、そんなことはないと思いますよ

 「きょう、たった今、あったじゃないか。ほんとに世の中冷たいよ。無収入の者から国民健康保険税を取る時代だぞ。支払能力のない者は、かつては免除されたんだ。今はどうだ、家財道具を差し押さえてすべての財産を没収するんだぞ。支払い金額以上のものをすべて国のものにする。世の中冷たいな」

 ねえ、ほんとうに

 彼がやってきた。

 もう術着から白衣に着替えている。

 ちょっと、悪酔い

 無収入の者から全財産を差し押さえる形で国民健康保険税を取り立てるんだって

 「そうだよ。自治体によっては暴力団に下請けをさせてる。厚生労働大臣の許可証を自治体で取得して、暴力団に依頼するんだ。お墨付きがあれば、どんな暴力的なことをしても、警察は動かない。以前は」

 免除制度があった

 「ああ。でも今は違う。根本的な原因は高齢者医療なんだ。高齢者はとにかく足が痛い、腰が痛い、って病院に頼るよね。そして湿布薬をもらって帰る。彼らは、病院に治療にくるんじゃないんだ。遊び相手を求めて集まる。そして、弁当やおやつを持ち寄り、病院のロビーでピクニックを楽しむ。それが目的。それをどうにかしないと問題は解決しない。でも、しようとしない。なぜかといえば、高齢者は選挙の時、自分にいいことをしてくれた立候補者に迷わず票を投じる。国会議員も大臣も票があってこそ生きていけるんだ、支持者である高齢者に有利な政策を取るよ」

 手術室長が手術室から出てきた。

 「これ、CTと、記念品」

 彼に渡したのは、手術に使ったCTの束と、ビンに詰められた腫瘍。

 病室に置かないでよ。

 怖くて夜中にお手洗いにいけなくなるから。

 病棟の保管庫に入れておこう、ね。

 「ごめん、これ、ここのベンチに置いておいてもいい?。トイレ我慢してたんだ。かなり危険な状態で」

 彼は、ベンチにすべてを置くと、さっさとお手洗いに飛び込んだ。

 お手洗いを我慢して、あんな困難なオペをしてたの・・・・・・。

 

 「あっ、ごめん」

 彼の院内PHSが鳴った。

 「はい、はい、えっ、家族ですか?。はーわかりました」

 彼はPHSを切った。

 「なんか、彼の家族が待機室で待っているって言うから、オペについて説明しなきゃいけないみたい。とにかく、行ってくる。アネさんをお願いね」

 彼はCTの束とホルマリン漬け腫瘍を持って、待機室に走った。

 

 「母親に連絡したから、来てくれたんだろう。なあ、志村、医者は本当は派遣社員なんだろう?」

 絶対にないですよ

 病棟に戻りましょう

 「少し、このベンチで頭を冷やす。患者さんの搬送を見届けないと」

 しばらくして、4F病棟から3人の看護師がきた。

 2人はベッドに移し変えられた患者さんの搬送。1人は先行してエレベーターの確保を担当する。

 搬送が始まると、待機室から彼と、患者さんの母親と思われる女性が出てきた。

 女性はしっかりとベッドに寄り添っている。

 さあ、わたしたちも住処へ戻りましょう

 わたしは、アネさん医長の肩を押して、病棟へと戻った。


 きょうのオペのすべては、動画として記録されている。

 病棟のライブラリーに置かれ、その病棟の医師だけが、視ることが許される。

 本当の目的は、医療ミスだと訴えられた場合の証拠物件なんだけどね。


 きょうのオペに限って、その必要はゼロだ。

 あんなに見事なオペは初めて見た。

 アネさん医長がおかしくなるのもわかるよ。

 おまけに、疲労がMAXなはずなのに、恒例の夜食を病棟のスタッフに振舞った。

 定年後に半ば強引に復帰させられた看護師は、レシピを訊いて、メモしている。

 「焼肉のたれde焼きうどん」(deはわざとローマ字にしたんだって、彼が言ってた)

 ヴォリュームがあって最高の味。

 焼肉のたれって、こんな使い方もできるんだね。


 サコちゃん、Good job!.


 患者さんの少年は、きょうはもう、とても元気になっている。

 患者さんの体力をまったく奪わないオペのおかげだ。

 少年は、1つ開いた普通個室に移動になった。

 母親がこれから付き添うことになったから。

 長い間、離れ離れになっていた2人の時間を埋めてやろうという、アネさん医長の特別なはからいだ。

 個室を希望する患者さんは多くて、倍率がものすごい。

 本来ならば、少年の番ではないんだけど、それは医師と看護師と、1Fのケースワーカーしか知らない。