テニス教室4日目。
きょうは仕事上がりにいきなりコートへ。
サーブの練習。
どのくらいの高さまで、ボールをトス・アップするか、がまず1つの課題。
そして、一番大切な、どの高さのときにラケットでインパクト(打つことをこう言うみたい)するか。
トス・アップした瞬間にサーブを打つ姿勢にはいらないことが原則。
相手に構える隙を与えるから。
インパクトの瞬間に、さっとサーブ姿勢に入るのが最高にきれいなんだって。
そう言われてもなかなか。
「誰だって最初からできる人はいないよ。できるなら、ぼくは教えない」
だよねー。
ところが3球目から、できちゃったんだ。
彼は、いいよ、って言ってくれただけ。
「じゃあ、むずかしいことをしようか。これはできないよ。できなくてもいいんだ。スマッシュは、きのう教えた、ネットを越えた瞬間に垂直落下するボールが最高だから」
彼は相手側コートの中心にボールの入っていた缶を立てた。
そして、昼休みに自宅マンションへ戻って、持ってきた自分のラケットで、ボールを打ち、缶に当てる。缶の位置をあちこち変えてすべてに当てた。
ラケット・コントロールの正確さを見せたってわけ。
それをわたしにやってみろって。
さすがにそれは無理だよ。
三十数年のテニス暦を持つ人と同じことなんてできたら、化け物じゃない。
若貴時代の強敵は化け物、じゃなくて曙。
そんなことどうでもいいか。
1球やってみたけど、全然当たらない。
「上から叩きつけるようにして、ラケットのフェイス(打面)を対象物の方に向ける」
そう。そう教わったんだよ。
一番忘れちゃいけないことなんだ。
彼が教えてくれたグリップは、それを簡単に行うためにあるんだよね。
よし。
2球目。
やった!。缶を吹き飛ばしたよ。
これなんだよ、これ。
3球目。
彼は缶の位置を変えた。
また、当たった。
4球目。
また缶の位置が変わった。
また、当たった。
5球目。
缶の位置が変わった。
「ここが、ダブルスの場合、相手がフォーメーションを取った時の隙になるんだ」
そこを狙えば、スマッシュが決まってポイントが入る、ってことだ。
よーし。
狙うよ。
集中すると缶しか見えなくなる。
今だ。
インパクトの時に、それまでとは違った手ごたえがあった。
ふと、気がつくと、ボールがどこにもない。
えっ、わたし、どこへ飛ばしたの?
彼は呆然と缶を見つめている。
ボールは?
彼はだまって缶を指差した。
なにがあったの?
「来てみればわかるよ。とんでもないことが起きてる」
慌てて、缶に駆け寄って覗き込むと、中にボールがあった。
まだ、回転していた。
うそ?
「ほんと。それも缶のふちに当たらずにスポッと落ちた」
そんなこと
「あるわけないけど、あった」
どうして?
「フェルマーの最終定理を説く方が簡単だと思う」
フェルマーの最終定理。
絶対に解くことのできない数式。
世界中の数学者が今も、解法を研究している。
「ぼくが、間違って缶を逆さに置いてしまったから起こったハプニングだろうけど、きちんと置いたら缶の上に乗っかっていたと思う。なんで、こんなことができるわけ?」
偶然だよ、きっと
狙ってできるものなの?
「できる。でも確率的にはゼロに近い。うんちにできる芸当じゃないよ、これは」
そんなにすごいの?
彼は頷いた。
「どうして、缶に当たらずに、こんなにうまく落ちたのかな。まあいい。ラケット・コントロールは完璧だね。いいイメージを残ったところで、きょうは終了」
いい気分で病棟に戻ってきた。
事件はその時に起こったんだ。
会議室じゃない、現場でね。
カルトがビラ配りを、病棟内で行っている。
アネさん医長も、追い出したいんだけど、不気味で手が出せない。
サコちゃんの出番だよ。
いけ、警部。
彼は一目散に、カルトの連中に向かって突っ込んでいった。
「病院の中で、こういう行為をすることは禁じられていることを知らないの?」
「世界平和と幸福のためにやっているんです。イエスの御力によって患者さんたちは救われるでしょう」
彼は連中の手からビラを奪い取った。
「あー、エホバの証人か。あんたたちはイエスを語ってはならないよ。日本基督教団から破門されているでしょう。現在、350万人の原告と係争中」
「いえ、それはデマです。わたしたちは今も日本基督教団に所属していますし、裁判なんかとんでもない」
「わかりました。あくまでそう言うなら、ぼくがここで洗いざらいぶちまけるよ。いい?」
「どうぞ、できるものなら」
「じゃあ、そうするね。ぼくはこういう者です」
彼はIDを提示した。
「きみたちは詐欺的カルト集団指定を受けています。活動は組織犯罪対策法によって禁じられています。ですから、これから司法警察の手に渡します」
彼は携帯を開いて耳に当てた。
「ミス・プリンセス。きのうはごくろうさま。公安からきみたち司法警察へのプレゼントがあるんだけど、受け取ってくれるかな?・・・・・・エホバの証人。ぼくが司法警察の身分で逮捕権を行使してもいいんだけど、ワッパがないんだよね。ダーリンに渡そうかと思ったけど、あいつはグジグジ言いそうな気がしてさ。公安には逮捕権がないから、司法警察の誰かに渡さないとならないでしょ。お願い」
公安?。
彼は普通の警察官でしょ。
公安調査庁とどういう関係が?
しばらくして、少年課の彼女がやってきた。
きょうもデニムの短パンにチューブトップ。
ほんとにゴスロリ刑事もいるでしょ、デカワンコみたいな。
チャンコさんもいるよね。
きょうは男性刑事を4人従えていた。
「サコちゃん、ありがと。2日続けて大漁だね。でもさー、不思議だよね、サコちゃんの行くところには犯罪が起こる。なんか呼び寄せる体質なんじゃない?」
彼女は男性警官に命じて、エホバの証人2人を拘束させた。
「連行して」
男性警官たちは2人を連れて去っていく。
「御挨拶が遅れました。この前は主人が御迷惑をおかけしました。その後、ものすごく順調で、痛みもまったくないんです」
大胆な服装をしてるわりには礼儀がものすごくしっかりとしてるんだよね。
見習わないと。
「それと、サコちゃん。公安とは書類のやり取りでOKだよね」
「ああ、連絡して作成させる。早急に届けさせるから」
「よろしくね。でも、なんでサコちゃん、まだ公安なの?」
「解任届けは4月1日付で提出してるんだけど、まだ手続きが完了してないの。上がとろいから」
「司法警察と一緒か。もう10日もすれば、4ヶ月なのにね」
「ほんとにね。家族を持ったら調査員は解任でしょ。ほんとにとろいよ」
「ウチのと一緒だね。アイツは2日続けてミスったから、降格かな、巡査部長に。離れ小島に飛ばされろってね。そいじゃ、サコちゃん身柄は確かに預かりました」
「これが証拠品」
彼はビラを、彼女に渡した。
「これが大事なんだよね。なに・・・・・・札幌ドームで聖書大会?」
うそっ、だめだよ、札幌ドームをレンタルしちゃ。
最も性質の悪いカルト教団なんだから。
「そっちのほうは公安でお願いできるよね」
「ああ。絶対に潰す。とりあえずはこれを潰して宗教法人格を剥奪する。ちょっと大きすぎて一気には叩けないから、じわじわとやるしかないんじゃないの」
「蛇の生殺し、か。公安の得意そうな技。でもさ、入ってないわけ、このカルトには?」
「入ってるよ。だから上も何らかの情報はつかんでるかもしれない。でもとろいから腰が重いのかもしれないし、入っている調査員が連絡を取れない状態なのかもしれない。盗聴器はいくつも仕掛けてあるはずなんだけど」
「そうか。じゃ、サコちゃん、このビラ1枚あげる。FAXしてやって」
「ありがと。助かる」
「じゃあ、サコちゃん、2日続けて獲物をありがと。また連絡ちょうだいね」
それから彼女はスタッフ・ステーションに顔を出し、礼を言ってから、病棟を離れた。
公安って?
「公安調査庁の調査員なんだ、本当は身分を明かすべきだったんだけど、それが許されないところなんだよ。潜入捜査専門の省庁だからね。家族ができたら解任される。それが、3ヶ月を経過した今でも、手続きが終わっていない」
それで、警察官でありながら公安なわけ?
彼は頷いた。
「アネさん、お世話になりましたが、きょうかぎり」
「辞めなくてもいいって。病棟にあんなのが入り込んだときにどうするんだよ。4F病棟の辞表の行く先は知ってるだろう」
アネさん医長は言った。
私も知ってるよ。シュレッダーの中だ。
「司法警察でも動くことはできるんですよ。だから、大丈夫です」
「そう。でも公安がいてくれるほうが心強いよ。組織犯罪には」
「かっての敵に頼ってどうするんですか」
あー、全共闘と公安調査庁は仇同士か。
「あの頃は潜入だけじゃなくて盗聴もしっかりとさせてもらいました」
「もう忘れたね。今は単なるサラリーマン医師だ」
「とにかく、今のぼくを認めてくれるのなら、警察官としてきちんと守りますから、心配しないで下さい」
アネさんは頷いた。
しかしねー。
公安の調査員だって。
いわゆるスパイだよ。
日本版ジェームズ・ボンド。
どうりで女性の扱いがうまいわけだ。
きょうの夜食は冷製パスタ。
「夏にぴったり!トマトと生ハムの冷製パスタ」
トマト・ソースのパスタにトマトと生ハムとチーズがトッピングされてるらしい。
冷製といってもキンキンには冷やさないらしい。
お腹が冷えるから、粗熱をとった程度なんだって。
007特製のパスタは、やっぱり、シェイクしてステアードしたドライ・マティーニで食べるの?。
わたしはプロテスタントでアルコール禁止なんですけど。