「ちょっとさー、誰がうんち(運動音痴)だって?」
彼が言った。
きょうの昼食前、わたしのテニス・ラケットのガットが張り上がって、受け取ってきた。
土砂降りの雨で、きょうは彼もさすがにテニスを教えてくれないと思ってたんだ。
それが、昼食後、いきなり晴れてしまって。
昼食が消化しきるまでは、コートに出ないよ、って。
消化したら出るって、ことでしょ。
一気にモチベーションが上がったよ。
いざ、コートへ。
入るときに、彼はいきなり礼をした。
慌ててわたしも礼をした。
その意味は、夕食の時に教えてくれた。
大相撲って、力士が土俵に上がるときに必ず礼をするでしょう。
あれは、土俵というのは神様がいる神聖な場所だから、なんだって。
神社に行ったときにもまず何よりも礼でしょ。
それからお賽銭を投げて、鈴を鳴らして、手を打って、また礼で終わる。
それと同じことなんだって。
コートにはテニスの神様がいるから、コートに入るときには礼。
出る時にも礼。
しない人もいるけど、彼は最初のコーチにそう教えられてから今までかたくなに守ってる。
それで全戦全勝なんだ。
一度にたくさんのことは教えない、って言われた。
完璧に憶えて欲しいから、ひとつずつにするよ、って。
こっちは初心者だしうんち(運動音痴)だから、一度にたくさんのことを憶えろと言われてもムリだから、助かった。ホッとしたよ。
ピアノだって一度のレッスンで、バイエル全ページを教えるなんて無茶しないからね。
それで、第一回目のきょうは、基本姿勢。
彼が試合でしているものをそのままわたしに教えてくれた。
余計な体力を消耗しないで、しかもパワーのあるボールが打てる姿勢なんだって。
日本のプロ・アマ通して、この姿勢をマスターして使っているのは、女優の大場久美子さんだけなんだって。
彼は、大場さんと仕事をして、休日に1度だけテニスをしたことがあって、お互いに同じ姿勢であることに驚いた。
いざ、ゲームはフルセットまで持ち込まれて、最後のゲームで、何度もデュースが続いて、なんとか彼が取って勝った。
彼の数多いゲーム経験の中で、あんなに翻弄されたのは初めてだった。
男対女だよ。
非力な女性が簡単に負けるのは当たり前でしょう。
それを男性と互角に戦って、しかも負けたことのない彼を徹底的に追い詰めた。
秘密は大場さんの基本姿勢。
基本姿勢。彼はスタンスって呼んでた。
それをわたしに丁寧に教えてくれた。
TVの中継を観ても、このスタンスを使っている人はいないから、ぼくのを観るしか参考にはならない。
でも、すべてを教えるからマスターして欲しい。
怒らないで、親切に教えてくれた。
でも、お願いだからブログには書かないで、って言うから、書きません。
申し訳ありません。
それで、試しにボールを打ってみようか、ってことになって、ボールはラケットの打面(ガットの張ってある、ネット状の部分)のこの辺にあたると、ものすごく飛ぶから、って教えてもらって、彼がボールをトスしてくれて、打ったら、ものすごい遠くまで飛んでいってしまって。
彼、
「いいよ。すごい」
2球目。
また、コートの向こうの奥まで。
3球目。
コートを囲んでいる鉄の網に激突して、網に凹みを作ってしまった。
彼、しばらく呆然と網を見つめてた。
わたし、まずいことをやったのかな。
まずいよね、施設を破損したわけだから。
ボールは1缶(テニスボールっておもしろいね。缶に入れて密封されて売られているの。外気に触れると、中の空気が失われるからなんだって)3個入りしか買ってないから、3球打ち終わると、彼が走って取りにいく。
そして、またわたしにトスしてくれる。
それを5回くらい繰り返して、スタンスは完璧だから、きょうは終わろう、って。
彼は息が相当あがっていて、あたりまえだよね、ボールを取りに走らなければいけないんだから。
だまって、それを見ていたわたしが一番悪いんだけど。
結局、コートの鉄網に12個の凹みを作ってしまった。
「大丈夫だよ。誰も使わない廃コートでしょ。そこまで怒られないよ。怒られたら、ぼくが直すから。内側から板を当てて、外から木槌で叩けば直るって。ぼくは高校のテニス部時代、副顧問の教頭先生に手伝ってもらって、ぼくが凹ませたところを直して歩いたから、自信はある」
やっぱり彼もやったんだ。
「このスタンスをマスターしたって証明なんだ。それだけのパワー・ボールが打てたって証拠だから。
でも、ちょっとさー、誰がうんちだって?」
わたし
学校では先生にまでうんちって言われてたもん
「ほんと?うんちが、12個も凹み作る?」
だって言われてたから
バレーボールだって、トスしようとしたら顔面直撃するし、バスケットだって、ドリブルしてたら突然ボールが消えて、体育館の端っこに転がってるし
「うーん。それってきっと教え方が悪いんだよ。体育って、球技のときは基本的なことは教えないで、すぐにゲームに入るよね。それで上手くできるわけがないんだよ。遊びの延長になっているヤツだけが上手く見えるってだけ。自慢じゃないけど、ぼくも学生時代はずっとうんちだったよ。成績は常に1」
だって、ダイビングの資格はマスター・ダイバーって、最高のクラスでしょ
テニスだって全戦全敗だし、ウインド・サーフィンはするし
「陸上は短距離が苦手。マラソンは喘息があって走ってはいけない。サッカーをやれば、相手チームの選手に思い切りボールを支配している足を蹴られて亀裂骨折。
バスケットはシュートに入った瞬間に相手チームの選手に肩にぶら下がられて脱臼。今でも簡単にはずれるよ。時々はずれることがあって。ダイビングも、サーフィンもテニスも、基礎に時間をかけてきちんと学んだからできるってだけさ」
彼もうんちだったのか。
コロンビア大学医学部卒で、テニス・ウインド・サーフィン・ダイビングが得意で、臨床心理士で、法医学者で、才能のある音楽家。完璧にみえたけど、人間的な感じがするのはうんちくんだったからなんだ。
なんかものすごく安心した。
弱点がみえたからね。
今までは、夫婦だけど、やっぱりちょっと距離を置いていたのね、経歴が経歴だから。でも、かわいい弱点をみせてくれたことで距離がゼロになった。
そうか、うんちくんか。
きょうの夜食の食材を買い集めた。
何をつくるの?
「ホタテの稚貝と卵巣とシジミの炊き込みご飯」
ほんとにベビーホタテなんだよね。
小さなホタテ。
「卵巣はホタテの卵が目一杯詰まってるからね、ボイルしたり炊き込んだりすると、かずのこやたらこみたいにぷつぷつがたくさん出てきて、歯ごたえがあるんだ。稚貝とシジミはぷにゅっとした感じだから、卵巣で歯ごたえのバランスを取る。それにシジミは疲労、特に眼精疲労には最高でしょ。タウリンのかたまりだから。ファイト一発より多いんだよ。そしてあしたはタチウオの握りにするつもり。仲買さんであした、千葉の竹原っていうところからタチウオが届くっていうから、予約してきた」
タチウオ?
「うん。刀の太刀っていう字に魚。太刀にそっくりな形をしてるんだ。全身が銀色だしね。今が旬で、竹原産が日本で最高なんだよね。おまけに今年は相当上物があがってるって言うから、素材の本来の食感を一番活かせるのは何だろうって考えた時に握りだろうと思ってさ。江戸前寿司、つまり東京の一流寿司店で握ってもらうと、最高においしいんだ。高いけどね一昨年で、1カン1,200円だった。周るお寿司屋さんにはないネタだしね、高級魚だから。でも仲買さんで安くしてもらえたし。明日は素人が握るんだけど、太刀魚の本来の味や食感を壊さないように心してかかる。だから、きょうはちょっと手を抜いて炊き込みご飯ってことで」
グルメちゃんだからね、ほんとに。
夜食でも妥協しない。
4F病棟で唯一のほっとする時間を、彼がアレンジする。
彼って、やっぱり、不思議ちゃん?。