皆さんこんにちは、珠下なぎです。

今日も来て下さって、ありがとうございます。

 

突然ですが、先日宗像~福津に取材に行って参りました!

なぜいきなり宗像? 宗像ってどこ?

と思われた方も多いと思います。

 

宗像は福岡市と北九州市の中間、玄界灘に面する地域です。

「『神宿る島』沖ノ島と関連遺産群」という名称で世界遺産に登録されましたので、ご存じの方も多いでしょう。

 

玄界灘、九州と朝鮮半島のちょうど中間くらいにある沖ノ島では、4世紀後半の昔から、海上交通の安全を祈るための、国家祭祀が行われていました。

この祭祀は大和朝廷が主導で行われていました。実際の祭祀を取り仕切っていたのが、この地域の有力豪族である宗像氏。

大陸との交易は大きな利をもたらしましたが、古代の人々にとって大陸へ渡るのは大きな危険を伴いました。

そこで活躍したのが、航海術に長けた宗像氏。

沖ノ島の祭祀をとりしきり、大和朝廷と強いつながりをもちます。特に天武天皇の時代には、宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)が天武天皇の長男・高市皇子を生んでいたこともあり、そのつながりはますます強固なものになりました。

 

沖ノ島は今でも『神宿る島』として島全体が神域となり、神官以外は立ち入ることができません。

そんな場所ですが、九州本土にある宗像大社には誰でもお参りできますし、宗像氏に関する遺跡群は見学することができます。

 

まずは朝1番で、「海の道 むなかた館」へ。

 

ここでは宗像氏と沖ノ島と関連遺跡群に関しての歴史のおさらいと、関連遺跡から出土した品々の一部を見ることができます。

 

下の長い鉄鉗の横にある不格好な塊は鉄滓。製鉄の時に出る鉄くずのようなものです。これがあるということは、宗像氏もかなり早くから製鉄の技術を持っていたことが分かりますね。

 

次は、宗像大社に向かいます。

現在の宗像大社は中世に再建されたものですが、なぎは社殿の奥に向かいます。

新緑に囲まれた小道を通ります。空気が澄んでいて気持ちいい。

 

 

 

目当てはこの場所です。

 

 

ここは高宮と呼ばれ、社殿が整備される前の古代、祭祀が行われていた場所です。
樹齢どれだけかになるかも見当もつかない見事な木々。
この時代は、木々や石など、自然そのものを神に見立て、祭祀を行ったそうです。
自然を神に見立てるのは、神籬(ひもろぎ)と呼ばれました。
ここの空気はちょっと俗世とは違い、圧倒的に清浄な気を放っていました。
祈りの場には、時々こういう、特殊な気を持っている場所があります。
地球の裏側、パキスタンのペシャワールのモスクで感じたのもこの気に近かった。
 
今度は車で、新原奴山古墳群に向かいます。
4~6世紀の宗像一族の墳墓が立ち並ぶ場所。
43もの古墳群が並んでいます。彼方に玄界灘と、辺津宮のある大島が見えます。
 
玄界灘からの海風がすごい。
昔は今よりも海岸線が内陸にあり、古墳群は海岸沿いに立ち並んでいたそうです。
海から見たら圧巻だったでしょうね。
玄界灘の潮風に立ち向かうように建つ、海の豪族宗像氏の墳墓。
海と共に生きる人々の逞しさと力強さがみなぎるようです。

 

 
森?いえいえ、これは最大の前方後円墳だそうです。

 

さらに車で移動、こちらは宮地嶽神社の中にある、宮地嶽古墳。
7世紀に娘を大海人皇子に嫁がせ、高市皇子の外祖父となった宗像君徳善の墓と伝えられています。
宮地嶽神社の奥の宮で、どこにあるのかわからず、「どこが古墳なんですか?」と尋ねたら、「その社の後ろの山、全部古墳ですよ」と。
びっくり。
しかし、ここが徳善の墓なら、どうして他の古墳とぽつんと離れているのでしょう。
娘の尼子娘は火葬にされたようですから、土葬・古墳文化から、火葬・仏教式の葬儀の文化への過渡期にあたったのかもしれません。

 

すぐ隣にはこんなものも。恋愛成就の社だそうです・・・・・

 

この取材がどう実を結ぶかは……。

皆さん気長にお待ちください。

 

最後にネットでチェリまほ診断なるものが流行っていたのでやってみました。

 

 

なぎは柘植です

 

あなたの性格はチェリまほ登場人物のどのタイプ? #チェリまほ性格診断

 #チェリまほ #kuizy

@nami41400669より

https://kuizy.net/analysis/4938/3

 

おお!桜花文学賞受賞者の柘植先生と同じとは!

物書き冥利につきます。

 

(黒沢になって安達君を愛でたい気持ちもちょっとありましたが……)

 

明日はまたちゃんとチェリまほ(ドラマ)の記事を更新する予定です。

 

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!