柳田國男「先祖の話」をひもといてみれば、日本人にとって死者とは、この世とさほど離れていないあの世にあり、会話を交わすこともできれば触れることもできる存在であったことがわかる。

(詳細は一昨日のブログを参照されたい)


 人は死ぬと、この世を去り、あの世の住人となる。

 しかし、あの世はこの世のすぐそばにあり、いつでも片方の意志により、言葉を交わしたり魂をふれ合わせたりすることのできる場所である。

 死者は、この世で触れ合ったり姿を見たりすることはできない存在になるが、今度はあの世の住人として、この世を訪れる存在になるのである。



 私自身の私見に過ぎないが、この過程を、喪の作業に重ね合わせて考えてみると、非常に整合性があるのである。


 喪の作業(モーニングワーク)というのは、親しい人と死別した後にたどる心の過程を言う。

 細かい段階は学者によって相違があるが、おおまかに言うと、親しい人と死別した後、悲しみの時期を通り抜け、故人がいない人生に適応していく過程のことを言う。


 身近な人が死者になると、人は喪失感に苦しむ。それは、今まですぐそばにあったものが、触れることも会話を交わすことも二度と出来なくなってしまったという喪失感である。



 しかし、人は悲しみを絆として、死者となった相手を、「この世でない別の場所にいるけれど」「すぐ近くにあり」「今までと違った形で心を通わすことができる相手」に変えていくのである。


 そうすることで、相手は、「永遠に失われてしまった存在」から「今までとは別の形で側にいる存在」に変わっていく。生者は死者となった相手と、今までとは違う形で共に生きることができるようになるのである。

 そうすることによって、喪失の苦しみは薄れていく。


 わかりやすく整理してみよう。


・喪の作業における生者の心の動き

 死別⇒悲しみの時期⇒新しい環境への適応の時期


・民俗学的見地からの死者の位置づけお

 死別⇒失われた存在⇒交流可能なあの世の住人


 

 悲しみを大切にしなければならないのは、このことでもよく分かる

 悲しみは、死者と生者をつなぐ絆だからである。

 絆を無理に断ち切るのは、生者と死者とが新しい関係を結ぶことを妨げることになり、結果として喪の作業を滞らせるからである。