🌱【なぜ私たちは“社会のしくみ”に無関心になってしまったのか──それは、“美学”を失ったから】

 

「あなたは社会の仕組みに関心がありますか?」

 

そう尋ねられて、胸を張って「はい」と答えられる人は、どれだけいるでしょうか。

 

新しい制度や、仕組みの変化、身近なルール。

どれも自分の人生に関わるはずなのに、多くの人が“どこか遠いこと”と感じている。

それは果たして、個人の“無責任”なのでしょうか?

 

私は違うと思います。

 

それはこの国の教育と、社会のしくみの“美しさの喪失”がもたらしたものだと感じています。

 

🏫 【意見を持つ力を、私たちは学んでこなかった】

 

日本の教育は長く、

「空気を読むこと」や「輪を乱さないこと」が重んじられてきました。

 

もちろんそれは、美徳でもあります。

 

けれども一方で、

「自分の考えを育てること」や「それを言葉にすること」

そして「違う意見と向き合う力」を養う機会は、ほとんどなかったように思うのです。

 

・人とぶつからないために、黙っておく

・よくわからない制度は、誰かが決めたことだと諦める

・誰を応援しても、どうせ何も変わらない

 

そんな空気のなかで、“社会は自分とは無関係”という感覚が、静かに広がっていったのではないでしょうか。

 

🎭 【“美しさのある生き方”が、見えにくくなった】

 

私は、“美学”という言葉がとても好きです。

 

それは外見のことでも、芸術のことでもなく、

「どう生きるか」に通じるものだからです。

 

かつては、

── 誰かのために尽くす人生

── 損を承知でまっすぐ貫く姿勢

── 誤解されても信じるものを手放さない誇り

 

そんな生き方が、たしかに“美しい”と感じられる時代がありました。

 

でも今はどうでしょう。

 

・うまく立ち回ること

・目立たず波風立てないこと

・自分だけが損をしないこと

 

立ち回りのうまさや、出し抜く処世術ばかりが「正解」とされる時代──そこに、私は人としての“美しさ”が失われている気がして、息苦しくなるのです。

 

🕊【“志ある大人”の背中を、もう一度】

 

私が新しい一歩を踏み出したのは、60歳を過ぎてからでした。

 

いわゆる「初めての挑戦」。

社会に向き合う覚悟と、ほんの少しの勇気。

それはとても大きな出来事であり、同時に静かな目覚めでもありました。

 

そんな中で出会った声があります。

 

「誠実に語る人が少ない」

「理想を掲げる姿に感動した」

「誰かの人生に寄り添う生き方を見たい」

 

──その声に、私は何度も背中を押されました。

 

🌱【これから、“生き方の美学”を語ろう】

 

私たち大人が、

「自分の言葉で語ること」

「違和感に立ち止まること」

「誰かの痛みに共感すること」

 

そんな姿を見せることが、

きっと次の世代の“関心”を育てていくのだと思います。

 

そしてそれこそが、

“社会に向き合うこと”の原点なのではないでしょうか。

 

“票”のためではなく、“志”のために──

“勝ち”のためではなく、“美しさ”のために──

 

私はこれからも、「生き方としての哲学」を問い続けていきたいと思います。