今回はもう一つのおいらの目的の一つ、南三陸町の南三陸病院歯科口腔外科のS先生への訪問のお話です。
南三陸町の南三陸病院は平成27年12月14日に本設復興、開院致しました。
台湾の通信社「中央通訊」によると、建設費約56億円のうち、約4割に当たる22億2000万円を中華民国紅十字会総会(台湾赤十字)が支出ししたそうです。この額は台湾赤十字が東日本大震災からの復興を支援した建築物の中で最多の支出額だったといわれています。台湾は本当に隣の良き友人ですね。
南三陸病院の病院棟は免震構造になっていて、行政機関は耐震構造になっているそうです。
免震部と耐震部はこのように床が持ち上がるようになっています。
S先生に外来と医局を案内していただいたあと震災遺構を案内していただきました。
右にあるのが町木の「タブノキ」です。この木は暖かい地方の海沿いに多い常緑の高木で、海岸部のいたるところに自生しています。しかも根がまっすぐ生えるので津波でも流されずに生えているそうです。
これは仮設の図書館です。本来あった図書館は津波で流失したので、その後全国から本の寄付を受け、ここに仮設の図書館を築いたそうです。
この施設は本施設は2001年開催の国民体育大会のバレーボール会場として建設されました。くしくも3.11の震災の時には南三陸町最大の避難所となり、一時、約1500人が避難していたそうです。
これは南三陸唯一の「あさひ幼稚園」です。震災で園舎を失いましたが、ユニセフの支援で再建に至ったそうです。
被災してしまった大雄寺の塩害杉が使われた、木のぬくもりのあるモダンな園舎です。
実はこの幼稚園はサッカー日本代表の長谷部選手とつながりが深く、彼は年に1回は園を訪れ、子どもたちとサッカーをしたり、紙芝居の読み聞かせや工作、人形劇を演じたりなど楽しい時間を一緒に過ごしているそうです。また建物も彼の寄付金が相当入っているそうです。
木の教室で裸電球がぶら下がる凝った作りになっていて子供たちもここで学ぶことは一生の思い出になるでしょうね。こういったアイディアから若い人の人口減少が防げるのかもしれません。
そのあとかさ上げ工事が進む宮城県南三陸町に、ぽつんと残された結婚式場「高野会館」。そうです5年前のあの日、この会館は避難した約330人の命を救ったのです。その日は3階ホールでは地元の老人クラブの歌や踊りの発表会が行われ閉会式の最中で、元漁師だった会館の営業部長の判断で中にいた人を自宅には帰宅させず4階の屋上へ避難させたそうです。こうした機転から数多くの人命が救われましたが、津波の上ってきた高さを見ると、想像を絶する高さだったことがわかります。
その後陸前戸倉の駅まで来ました。陸前戸倉駅も東日本大震災の津波の被害で流失した駅ですが、2012年8月20日にBRTの駅として仮復旧しました。
現在は1日平均11名の利用者しかないのは、この付近の家々がすべて流失してしまったものです。
津波から人の流れまで変わってしまったのですね。
無人の風景が何ともいえない雰囲気を出しています。
時刻表も1時間に1本以下、病院、役所も高台に移転してしまい、鉄道沿線には人が住んでいなくなったのも、気仙沼線が復旧できない要因でもあるのでしょう。
しかも病院や役所を結ぶバス自体も1日に往復4本しかなく、これでは住民も病院に行くこと自体が大変な苦労になります。つまり運よく津波に家が流されなくても、そこにあったコミュニティー自体が崩壊してしまっているので、残された人々も大変な苦労が生まれているのです。
次に戸倉小学校と戸倉保育所のあったところです。この小学校と保育所は園長さんや校長先生の機転で裏山の五十鈴神社のある山に登ったために数多くの幼児と児童が助かったところです。
園児児童はこの山に登ったそうですが、この階段のところまで水が来たそうです。
後世に残す碑です。そういう意味でも海のそばにある神社仏閣はそれ相応の意味を持っているのですね。
今では静かな鎮守になっていますが、震災時には四隅に焚火を起こし、幼子は境内の中に入れ、上級生は外で夜を過ごしたそうです。
この五十鈴という名前の由来はもともと奈良県の天河神社に古代から伝わる神器で、天照大神が天の岩戸でお隠れになった時に、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、岩戸の前で舞を踊られた時に使われた神代鈴のことを指しているという説もあります。
五十鈴神社は宮城県の南三陸沿岸に広がり分布しており、その分布は中世の豪族葛西氏の勢力範囲と一致するところです。しかし、葛西氏の本拠地であった関東では五十鈴神社という名前は存在していないので、葛西氏と五十鈴との関係性は薄いと考えられます。
あとは伊勢神宮に流れる五十鈴川とのつながりを考えるのですが、古き時代に日本に渡来した海神族が信奉していた神だっと考えられ、そこからは天河神社(弁財天)の隠れた神や伊勢神宮の荒魂ともつながるのかもしれません。
チリ地震との関連もありモアイ像が作られたのですが、これは「南三陸モアイ化計画」の一環だと思われます。チリ地震の記憶を忘れないように南三陸の各地にモアイ像が作られました。
旧戸倉中学校です。この校舎は高台にはあったのですが、1階まで水が来たそうです。校庭に避難していた数名の生徒、教師が犠牲になったそうです。
地震発生時の2時48分に止まってしまった時計が今も時を刻めずに残っています。
現在は旧南三陸防災庁舎の前までは入れなくなっています。献花台も100mぐらい西側にあるので訪れる際には気を付けてください。
南三陸町だけで620人の死者と211人の行方不明者が出ました。これは南三陸町の20人に1人が亡くなった計算になります。
自分の家族に死者がいなくても、知人、親類にはだれか亡くなった方がいることになり、S先生からは「はじめはどうだったの?と聞きましたが、そのうち何も聞かなくなりました」とおっしゃっていました。それが現実なのでしょう。
合掌
最後に志津川を一望できる志津川高校に来ました。
これは震災前の写真と、直後の写真です。
これが現在の状況です。土地のかさ上げが進んできましたが、人が住めるまでまだまだかかりそうです。
おまけ
S先生に御馳走していただいた南三陸さんさん商店街の「オーイング菓子工房 Ryo」さんの焼き立て「お山のマドレーヌ」です。
焼き立ては絶品です。皆さんもぜひ食べに来てください。
個人的には仙台銘菓「萩の月」よりもおいしいと感じました。































