映画「君の名は」を見ていない方はまず映画を見てから読んでください。

 

 映画「君の名は」を先日見てまいりました。いやあ面白かった。あの映画で何点か気づいたことがあるのです。まずは新海誠監督はよくいろいろ調べて映画作ったなあ、というのが率直な感想で、実は登場人物の名前に様々な意味が込められているのです。

 

主人公たちの名前の意味

 この作品には男女2名の主人公が登場し、男性が立花瀧、女性が宮水三葉という名前になっています。まあスピリチュアル系が好きな読者の方はすぐ気が付くとは思いますが、男性の「瀧」と女性の「みつは」から隠された本当の名は瀬織津姫を思い浮かぶ人はいたと思います。瀬織津姫をご存知ない方のためにざっくり説明します。まだ日本が縄文時代と呼ばれていたころ、海から渡来した我々の祖先は一対の男女神を祀り始めました。男神は太陽の神アマテラス、女神は瀧に住む龍神の瀬織津姫です。(注・これらの神様の名前は様々に隠され変わるので、仮にアマテラスと瀬織津姫としています)しかし現在男神アマテラスと女神瀬織津姫を祀る神社は存在しないのは、意図的に名前が変えられていった歴史があるのです。

 

 決定的に瀬織津姫の名を奪ったのが持統天皇と藤原不比等だといわれています。彼女らは、自分の政権を安定化させるためにアマテラスを女神としなければならなかった理由があったと考えられます。そもそも古代の日本は大君という男の権力者と巫女で神託を得る女性がセットで権力の座についていました。魏志倭人伝に登場する卑弥呼もその巫女の一人であり、当時は男性よりも権力を持っていたのかもしれません。ところが大陸より仏教がもたらされ、その霊力によって国を治める時代へと推古天皇の時代では変わっていきます。その政権からクーデターで権力を受け継いだ持統天皇の父、天智天皇は仏教の力をもって白村江の戦いに挑み、百済の再興を図ったのですがあえなく新羅・唐連合軍に敗戦、もはや仏教の霊力では国家を保てなくなりました。その後壬申の乱を経て天武天皇のあと皇位を継いだのが持統天皇なのです。彼女は律令制度を整備し、それまでの男神アマテラスを女神に変え、皇祖神としました。それにより彼女の皇位継承を正統化し権力を天皇に集中させることに成功しました。その反面旧来あった女神の瀬織津姫は徹底的に隠され、新しく編纂された記紀から排除され、瀬織津姫を祭神としていたところは別の祭神にするか、仏教の観音菩薩等に変えられていきました。驚くことにその作業は明治の代まで続いていたといわれています。

 

 そんな隠された神として瀬織津姫は時として様々な名に変えられていて、記紀では「龗神(おかみのかみ)」や「罔象女神(みずはのめ)」として水の神として登場しますし、伊勢神宮の内宮の荒宮にまつられているアマテラスの荒魂や宇佐神宮の比売大神、厳島神社の市杵島姫命等全国の様々な祭神としても今現在存在しているといわれています。そのような隠された女神は今回の「君の名は」の舞台となっている飛騨とどうつながるのでしょうか?実は飛騨には古より口伝えで受け継がれた「飛騨の口碑」というものがあるのです。飛騨には昔から伝承を口伝えで語り継ぐ習慣があり、山奥に住んでいた語り部翁の話を託された山本健造氏によって昭和10年に世に知らされたそうです。文章はなかなかむつかしいのでおいらが勝手に要約します。そこには生命はまず淡山の丹生の池からわき、人々が増えやがて飛騨に王朝が生まれました。そこから「出雲王朝」は分家しました。しかし「出雲王朝」はオオクニヌシの腐敗により再び「飛騨王朝」に吸収されました。その後九州は大陸系の諸民族によって争っていたのでニニギを派遣し統一した。その後息子のサヌが大和橿原に入り大和国を建国した。最後は「出雲王朝」が新羅勢力にのっとられ、「飛騨王朝」は被差別民に落とされた。当時あった出雲神道は新羅信仰に変えられた、とあります。まあいわばトンデモ説の一つなのですが、最後の出雲神道は新羅信仰に変えられたところはまさに瀬織津姫がアマテラスに変えられた理由と重なる気がします。

 

 では「君の名は」の山の上にいた神様がなぜ龍神なのでしょう?そこに関係するキーワードが「ティアマト彗星」です。ティアマトとはメソポタミア神話においてアプスーと交わり、より若い神々を生み出した原始の海の女神です。実は1万年前の古代メソポタミアより発生した龍の女神は海の民より東アジアにもたらされ紀元前3000年頃には中国の苗族が信奉していた伏義・女媧の夫婦神に変容していきます。そこから我々の祖先の縄文人が日本列島に渡来し、伏義・女媧の夫婦神は男神アマテラス、女神瀬織津姫となり、七夕伝承とも習合していきました。そういったいわば日本のルーツというべき神の偉大さというものと合わせて持つ神の厄災を新海監督は描きたかったのかな?と考えました。

 

  この「飛騨の口碑」を新海誠監督は参考にしたというのは言うまでもないとはおもいますが、そこから瀧とミツハノメの合一という形で、封印された時空を超えた存在を作り出したというのは、まさに日本の古代の神の復活であり、そういった意味ではかなりネタ的には宮崎駿さんとも共通するテーマを持っている監督だと実感しました。