出雲探求 (12) もうひとつの出雲とまつろわぬ鬼たち ⑤ 塞ノ神としての出雲
島根県出雲大社から丹波・丹後にかけてめぐってきた旅もここで一区切り、今回は塞ノ神としての出雲を考えてみたいと思います。村の入り口にある塞ノ神、これは悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神のことです。古代アニミズムの世界では、ヤマは魑魅魍魎がいる所とされ観念され、人里に禍が及ぶことを恐れた村人は、サトとヤマの境界にサエノカミ(塞ノ神)を祀ってサトの安泰を祈願しました。古くは弥生後期の広形銅矛が、山と人里の境界、出入りの関門に埋納され、祭祀的特殊遺跡と呼ばれているが、そこは矛の呪力によって悪霊や魔性を祓った祭場と考えられ、これも一種の塞ノ神と考えられます。また秋田県の人形型道祖神で有名な鹿島様はまさに藁で作った鬼ともいえる姿で武甕槌神や鹿島大明神が集落境で悪霊や疫病などを防ぐいった習俗がのこっているものと思われます。つまり塞ノ神にはその土地で一番恐れられているものを具象化して配置したと考えられるのです。古代から中世に移り、畿内に巨大な都が出来上がると当然その境にも巨大な塞ノ神を必要としたと思われます。そして都がもっともおそれているものを塞ノ神にしたのではないのでしょうか。
丹波の塞ノ神・出雲大神宮
丹波・丹後の地はこれまで歴史上幾度となく畿内の勢力から敵視されていました。まだ日本が倭国と呼ばれていたころ、丹波にも北部九州や出雲に匹敵するだけのクニがあったのですが、北部九州から畿内に入ってきた王朝から国譲りを迫られ明け渡し自分たちは東国へとその居住地を伸ばした時代、また一度は天武天皇の壬申の乱によって名誉回復が図られたのですが、その後の藤原氏の新羅敵視政策により鬼や土蜘蛛として扱われた時代等様々な時代を経て来ていました。さらに都が山城に遷り、まさに丹波・丹後の地は鬼の住む仮想敵国となりそこに塞ノ神を設置する必要性が出てきたことから、当時もっとも恐れていたものとして、出雲をこの地に設置したのではないかと考えます。それこそが今の出雲大神宮ではないのでしょうか?そういえば京都御所の北に幸神社(さいのかみのやしろ)という神社があり、別名出雲路幸神、出雲路道祖神社ともいわれました。またこの出雲路は鴨川河畔西側にあり古くからこの地名が京都にもあったことがうかがわれます。
島根県出雲にある出雲大社も賽ノ神?
出雲大神宮(丹波亀山)の社伝に興味深い記述があります。社伝によると和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷したました。そのため現在の主神は独り取り残された三穂津姫命であるが、あくまで本来の出雲はこの地であったといわれています。そのため神社では「元出雲」と称しているそうです。和同二年と言えば藤原不比等が様々な工作を行っていた時代であることから、もともとあった杵築大社に丹波にいた大己貴神を遷し、『日本書紀』に合わせて杵築大社に大神殿を造り替えたというのがおいらの考えです。そして宮司も不比等の思惑のように天孫族の「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の末裔を称する千家が就任したものと考えられます。しかもその段階でもまだ神社には出雲という名前はついてなく、あくまでも杵築大社で祭神は大己貴神だったのです。その後平安期中期から17世紀までは祭神が素戔嗚尊であったのですが、これは神宮寺の鰐淵寺の意向が強かったものとも考えられます。そして17世紀の遷宮の際に祭神が素戔嗚尊から大国主に改められています。また明治4年に杵築大社から出雲大社と改称しました。つまり祭神が大国主になってからたかが400年、出雲大社という名称となってから100余年程度しかたっていないのです。
GO EAST!
藤原不比等によって杵築大社の宮司は天孫系の宮司にかえられてしまいました。ではもともとそこにいて祭祀をしていた人たちはどうしたのでしょう?その答えがおいらは氷川神社にあるのではないかと考えています。それはいつごろなのかということははっきりとは断言できませんが氷川神社の東角井権宮司は7世紀に出雲の一族が武蔵国造として移り住んだ際まつりごとを執り行うにあたり、出雲の神を奉じた」と説明しています。そう考えるとやはり不比等の時代に出雲にいた杵築大社の神官は移動したと考えられるので出雲を語るのにはやはり東国は外せませんねえ。おいらはまだ二荒山神社には行っていないのですが、まさにこここそが出雲の東国の拠点ではないかと考えています。また別件で熊野も出雲とはただならないつながりがあるのです。それは熊野大社に鑚火殿という建物があるのですが、ここで行う祭祀が出雲大社で行う神事の神火を貰い受ける神殿なのです。この時、出雲大社の宮司が熊野大社を参拝した上で拝受することになっているのだそうですが、その際に熊野大社の神官からあれこれイヤミを言われる様子が「亀太夫神事」という形で残っているようです。つまりアメノホヒとして天孫系の末裔のくせにスサノヲを祀ることになった天下りの出雲の神官への本来のスサノヲを祀る熊野大社神官のせめてもの嫌がらせだったのかもしれません。
そんなわけで今回は丹波亀山にある出雲大神宮をご紹介します。
出雲大神宮
所在地:京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
御祭神:、大国主命。別名を三穂津彦大神・御蔭大神
当日は朝早くだったのですがちらほらと七五三のお子様が来ていました。
境内は主に本殿と拝殿、それともともとこの神社の神奈備である御蔭山を神体山としたつくりになっています。
文献的には。いわゆる出雲大社と云われるものは明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲神社」と言えば当社を指していたそうです。
ちょうどラッキーなことに朝10時の神事をやっていてこれは一般の人も参加できるようです。
拝殿の中に入れていただき、本殿の前で祝詞をあげさせていただきました。
祝詞なんて久しぶりに読んだのですが、よーく読んでみると興味深いことが書いてありますね。そのあたりの解読は後日したいと思っています。
境内には真名井の水が湧き出しています。
こうやって逆光で写真を撮るとまさにスピリチュアルな方々に言わせると神々しい光の写りこんだ写真になってしまいました。
この「真名井の水」と呼ばれる湧き水はマグマの接触 変成岩層から湧き出しているそうで、古来より御神水と崇められてきたといわれています。
次に境内の裏手の方に行ってみましょう。
各摂社や磐座の案内図です。
初めに崇神天皇社に行きました。
出雲大神宮は崇神天皇により再興されたという社伝に由来しています。おそらく丹波に四道将軍の一人・丹波道主命を派遣したという日本書紀の記述から由来しているものと思われます。
次に上ノ社に行きました。
ここはスサノヲと妻の奇稲田姫を祀っています。
その近くには龍神乃神が祀られている御蔭の滝があります。本当は三輪山と同じ起源をもつ蛇神の山なのではないかと考えるのですがもはや記録も伝承も何もないのが残念です。
そういえば丹後にあった皇大神社も神奈備として岩戸山がありましたよね。こういった山を崇拝する信仰は古代日本の黎明期の信仰形態の一つであると思います。
その横にはお稲荷さんがいます。そういえばこの丹波の地を開いたのも秦氏の勢力とつながりが強かったと考えられます。
そういえば丹波を治めていた大名の波多野氏ももともとは相模の秦氏と関係があるのかも、と考えられただならぬつながりを感じます。
その裏に古墳がありました。
見に行ってみると横穴式石室がぽかっと口を開けています。
古墳だと知らないで見るとこれはドラクエにあるダンジョンの入り口のようです。
春日社とかいてありましたがこれもおそらく磐座でしょう。
その横に大きな磐座があります。
境内の真裏にあるので、拝殿で拝んでいる人はこれを拝んでいるのかもしれませんよね。
行った日はようやく紅葉が色づいてきていました。
それでは最後に御蔭山の御神体の磐座に参拝に行ってみましょう。
ここに登る場合は社務所で受付をして白いたすきを受け取ってから参拝します。
この鳥居を抜け
まさに山登りです。
うちの家族も朝から登山、、、よく付き合ってくれると思います(笑)
ようやく磐座に到着しました。
ご神体の国常立尊です。
もともとこのあたりには丹波最大の千歳車塚古墳(全長88m)があり、6世紀前半にはここを神奈備として祀っていた豪族がいたと考えられます。日本書紀の記述では継体天皇即位前条によると、武烈天皇(第25代)の崩御後に皇位継承者がなく、皇統断絶の危機を迎えました。そこで大伴金村らは丹波国桑田郡にいた倭彦王を擁立しようとしたと書かれています。この古墳が倭彦王かどうかはわかりませんが、天皇に即位できるだけの実力があり、越の国の王であった継体天皇に匹敵するだけの勢力であったことがうかがわれます。
興味深いのはこの古墳の西方に「吉備」という字があることから、この氏族自体が吉備から移動した人々の可能性もあることです。
吉備と出雲のつながり、、、興味深いです。
小さな磐座もありました。
その後は家族サービスでトロッコ列車を乗りにトロッコ亀岡駅へ移動、しかしちょうど列車が出るところで残念ながら1時間後の列車になりました。
そこで近くの桑田神社にも寄ってみました。桑田神社は延喜式にも載っている由緒ある神社です。
桑田神社
所在地:京都府亀岡市篠町山本北絛50.51
御祭神:市杵島姫命・大山咋命・大山祇命
由来は上記のようです。松尾大社と祭神が同じのことから古くからこの丹波の地を開拓した秦氏との関連が考えられています。
そういえばこの丹波亀岡のちには「蹴裂の伝説」というものも伝わっているそうです。
「太古、神様が保津峡を切り開いて水を流し、山々に囲まれた湖を肥沃な盆地に変えた」
亀岡にはこのような伝説が様々な形で残っています。蹴裂と呼ばれる伝説では、神さまが一蹴りにして山を切り裂いたといわれ、また、ある伝説では、多くの神さまが協力して鍬を持ち、山を削ったともいわれています。
この地は秦氏が切り開いた土地であったのかもしれません。しかし出雲があるのはどういうことでしょう?一説によると秦氏と出雲氏がこの地に赴いて開拓をしたと説明していますが、おいらにはどうも腑に落ちない点があるのです。
同様の伝承は甲府盆地や松本盆地にもあり、甲府は出雲氏が、松本は阿曇氏が開いたといわれています。
もしかしたら現在でいう秦氏、阿曇氏、出雲氏は実は同族であり、ともに国譲りという神話であらわされますが、実は朝廷から見たら鬼であり出雲であり東に移動すれば蝦夷であったのかもしれません。
本当の歴史はまだうっすら見える程度なのですが、確かに丹波・丹後のちには時の為政者から見ればまさに対抗する勢力があり、彼らは東に移動していった 形跡を感じたのです。
これは対岸にある請田神社です。もしかしたら、このような伝承や社伝は秦氏や出雲氏が、まだ湖だった頃の面影を残す亀岡盆地を開発した様子を伝えているのかも知れません。しかし、出雲という名前自体の持つ意味としてはやはり大国主を考えると冥界(根の国)を支配するものでもあるので、当初は出雲族の神だったものがその後都を塞ぐ塞ノ神としての意味を与えられたのかもしれません。それこそが出雲の本当の意味なのではないかと考えたのです。
島根県出雲大社から丹波・丹後にかけてめぐってきた旅もここで一区切り、今回は塞ノ神としての出雲を考えてみたいと思います。村の入り口にある塞ノ神、これは悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神のことです。古代アニミズムの世界では、ヤマは魑魅魍魎がいる所とされ観念され、人里に禍が及ぶことを恐れた村人は、サトとヤマの境界にサエノカミ(塞ノ神)を祀ってサトの安泰を祈願しました。古くは弥生後期の広形銅矛が、山と人里の境界、出入りの関門に埋納され、祭祀的特殊遺跡と呼ばれているが、そこは矛の呪力によって悪霊や魔性を祓った祭場と考えられ、これも一種の塞ノ神と考えられます。また秋田県の人形型道祖神で有名な鹿島様はまさに藁で作った鬼ともいえる姿で武甕槌神や鹿島大明神が集落境で悪霊や疫病などを防ぐいった習俗がのこっているものと思われます。つまり塞ノ神にはその土地で一番恐れられているものを具象化して配置したと考えられるのです。古代から中世に移り、畿内に巨大な都が出来上がると当然その境にも巨大な塞ノ神を必要としたと思われます。そして都がもっともおそれているものを塞ノ神にしたのではないのでしょうか。
丹波の塞ノ神・出雲大神宮
丹波・丹後の地はこれまで歴史上幾度となく畿内の勢力から敵視されていました。まだ日本が倭国と呼ばれていたころ、丹波にも北部九州や出雲に匹敵するだけのクニがあったのですが、北部九州から畿内に入ってきた王朝から国譲りを迫られ明け渡し自分たちは東国へとその居住地を伸ばした時代、また一度は天武天皇の壬申の乱によって名誉回復が図られたのですが、その後の藤原氏の新羅敵視政策により鬼や土蜘蛛として扱われた時代等様々な時代を経て来ていました。さらに都が山城に遷り、まさに丹波・丹後の地は鬼の住む仮想敵国となりそこに塞ノ神を設置する必要性が出てきたことから、当時もっとも恐れていたものとして、出雲をこの地に設置したのではないかと考えます。それこそが今の出雲大神宮ではないのでしょうか?そういえば京都御所の北に幸神社(さいのかみのやしろ)という神社があり、別名出雲路幸神、出雲路道祖神社ともいわれました。またこの出雲路は鴨川河畔西側にあり古くからこの地名が京都にもあったことがうかがわれます。
島根県出雲にある出雲大社も賽ノ神?
出雲大神宮(丹波亀山)の社伝に興味深い記述があります。社伝によると和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷したました。そのため現在の主神は独り取り残された三穂津姫命であるが、あくまで本来の出雲はこの地であったといわれています。そのため神社では「元出雲」と称しているそうです。和同二年と言えば藤原不比等が様々な工作を行っていた時代であることから、もともとあった杵築大社に丹波にいた大己貴神を遷し、『日本書紀』に合わせて杵築大社に大神殿を造り替えたというのがおいらの考えです。そして宮司も不比等の思惑のように天孫族の「天穂日命(アメノホヒノミコト)」の末裔を称する千家が就任したものと考えられます。しかもその段階でもまだ神社には出雲という名前はついてなく、あくまでも杵築大社で祭神は大己貴神だったのです。その後平安期中期から17世紀までは祭神が素戔嗚尊であったのですが、これは神宮寺の鰐淵寺の意向が強かったものとも考えられます。そして17世紀の遷宮の際に祭神が素戔嗚尊から大国主に改められています。また明治4年に杵築大社から出雲大社と改称しました。つまり祭神が大国主になってからたかが400年、出雲大社という名称となってから100余年程度しかたっていないのです。
GO EAST!
藤原不比等によって杵築大社の宮司は天孫系の宮司にかえられてしまいました。ではもともとそこにいて祭祀をしていた人たちはどうしたのでしょう?その答えがおいらは氷川神社にあるのではないかと考えています。それはいつごろなのかということははっきりとは断言できませんが氷川神社の東角井権宮司は7世紀に出雲の一族が武蔵国造として移り住んだ際まつりごとを執り行うにあたり、出雲の神を奉じた」と説明しています。そう考えるとやはり不比等の時代に出雲にいた杵築大社の神官は移動したと考えられるので出雲を語るのにはやはり東国は外せませんねえ。おいらはまだ二荒山神社には行っていないのですが、まさにこここそが出雲の東国の拠点ではないかと考えています。また別件で熊野も出雲とはただならないつながりがあるのです。それは熊野大社に鑚火殿という建物があるのですが、ここで行う祭祀が出雲大社で行う神事の神火を貰い受ける神殿なのです。この時、出雲大社の宮司が熊野大社を参拝した上で拝受することになっているのだそうですが、その際に熊野大社の神官からあれこれイヤミを言われる様子が「亀太夫神事」という形で残っているようです。つまりアメノホヒとして天孫系の末裔のくせにスサノヲを祀ることになった天下りの出雲の神官への本来のスサノヲを祀る熊野大社神官のせめてもの嫌がらせだったのかもしれません。
そんなわけで今回は丹波亀山にある出雲大神宮をご紹介します。
出雲大神宮
所在地:京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
御祭神:、大国主命。別名を三穂津彦大神・御蔭大神
当日は朝早くだったのですがちらほらと七五三のお子様が来ていました。
境内は主に本殿と拝殿、それともともとこの神社の神奈備である御蔭山を神体山としたつくりになっています。
文献的には。いわゆる出雲大社と云われるものは明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲神社」と言えば当社を指していたそうです。
ちょうどラッキーなことに朝10時の神事をやっていてこれは一般の人も参加できるようです。
拝殿の中に入れていただき、本殿の前で祝詞をあげさせていただきました。
祝詞なんて久しぶりに読んだのですが、よーく読んでみると興味深いことが書いてありますね。そのあたりの解読は後日したいと思っています。
境内には真名井の水が湧き出しています。
こうやって逆光で写真を撮るとまさにスピリチュアルな方々に言わせると神々しい光の写りこんだ写真になってしまいました。
この「真名井の水」と呼ばれる湧き水はマグマの接触 変成岩層から湧き出しているそうで、古来より御神水と崇められてきたといわれています。
次に境内の裏手の方に行ってみましょう。
各摂社や磐座の案内図です。
初めに崇神天皇社に行きました。
出雲大神宮は崇神天皇により再興されたという社伝に由来しています。おそらく丹波に四道将軍の一人・丹波道主命を派遣したという日本書紀の記述から由来しているものと思われます。
次に上ノ社に行きました。
ここはスサノヲと妻の奇稲田姫を祀っています。
その近くには龍神乃神が祀られている御蔭の滝があります。本当は三輪山と同じ起源をもつ蛇神の山なのではないかと考えるのですがもはや記録も伝承も何もないのが残念です。
そういえば丹後にあった皇大神社も神奈備として岩戸山がありましたよね。こういった山を崇拝する信仰は古代日本の黎明期の信仰形態の一つであると思います。
その横にはお稲荷さんがいます。そういえばこの丹波の地を開いたのも秦氏の勢力とつながりが強かったと考えられます。
そういえば丹波を治めていた大名の波多野氏ももともとは相模の秦氏と関係があるのかも、と考えられただならぬつながりを感じます。
その裏に古墳がありました。
見に行ってみると横穴式石室がぽかっと口を開けています。
古墳だと知らないで見るとこれはドラクエにあるダンジョンの入り口のようです。
春日社とかいてありましたがこれもおそらく磐座でしょう。
その横に大きな磐座があります。
境内の真裏にあるので、拝殿で拝んでいる人はこれを拝んでいるのかもしれませんよね。
行った日はようやく紅葉が色づいてきていました。
それでは最後に御蔭山の御神体の磐座に参拝に行ってみましょう。
ここに登る場合は社務所で受付をして白いたすきを受け取ってから参拝します。
この鳥居を抜け
まさに山登りです。
うちの家族も朝から登山、、、よく付き合ってくれると思います(笑)
ようやく磐座に到着しました。
ご神体の国常立尊です。
もともとこのあたりには丹波最大の千歳車塚古墳(全長88m)があり、6世紀前半にはここを神奈備として祀っていた豪族がいたと考えられます。日本書紀の記述では継体天皇即位前条によると、武烈天皇(第25代)の崩御後に皇位継承者がなく、皇統断絶の危機を迎えました。そこで大伴金村らは丹波国桑田郡にいた倭彦王を擁立しようとしたと書かれています。この古墳が倭彦王かどうかはわかりませんが、天皇に即位できるだけの実力があり、越の国の王であった継体天皇に匹敵するだけの勢力であったことがうかがわれます。
興味深いのはこの古墳の西方に「吉備」という字があることから、この氏族自体が吉備から移動した人々の可能性もあることです。
吉備と出雲のつながり、、、興味深いです。
小さな磐座もありました。
その後は家族サービスでトロッコ列車を乗りにトロッコ亀岡駅へ移動、しかしちょうど列車が出るところで残念ながら1時間後の列車になりました。
そこで近くの桑田神社にも寄ってみました。桑田神社は延喜式にも載っている由緒ある神社です。
桑田神社
所在地:京都府亀岡市篠町山本北絛50.51
御祭神:市杵島姫命・大山咋命・大山祇命
由来は上記のようです。松尾大社と祭神が同じのことから古くからこの丹波の地を開拓した秦氏との関連が考えられています。
そういえばこの丹波亀岡のちには「蹴裂の伝説」というものも伝わっているそうです。
「太古、神様が保津峡を切り開いて水を流し、山々に囲まれた湖を肥沃な盆地に変えた」
亀岡にはこのような伝説が様々な形で残っています。蹴裂と呼ばれる伝説では、神さまが一蹴りにして山を切り裂いたといわれ、また、ある伝説では、多くの神さまが協力して鍬を持ち、山を削ったともいわれています。
この地は秦氏が切り開いた土地であったのかもしれません。しかし出雲があるのはどういうことでしょう?一説によると秦氏と出雲氏がこの地に赴いて開拓をしたと説明していますが、おいらにはどうも腑に落ちない点があるのです。
同様の伝承は甲府盆地や松本盆地にもあり、甲府は出雲氏が、松本は阿曇氏が開いたといわれています。
もしかしたら現在でいう秦氏、阿曇氏、出雲氏は実は同族であり、ともに国譲りという神話であらわされますが、実は朝廷から見たら鬼であり出雲であり東に移動すれば蝦夷であったのかもしれません。
本当の歴史はまだうっすら見える程度なのですが、確かに丹波・丹後のちには時の為政者から見ればまさに対抗する勢力があり、彼らは東に移動していった 形跡を感じたのです。
これは対岸にある請田神社です。もしかしたら、このような伝承や社伝は秦氏や出雲氏が、まだ湖だった頃の面影を残す亀岡盆地を開発した様子を伝えているのかも知れません。しかし、出雲という名前自体の持つ意味としてはやはり大国主を考えると冥界(根の国)を支配するものでもあるので、当初は出雲族の神だったものがその後都を塞ぐ塞ノ神としての意味を与えられたのかもしれません。それこそが出雲の本当の意味なのではないかと考えたのです。