出雲探訪(2) 本当の黄泉伝承 猪目洞窟


 前回、黄泉比良坂は実は架空の場所で実在はしていないというお話をしました。今回は実際伝承として存在した黄泉の穴をご紹介します。出雲風土記は編纂が命じられたのは和銅6 年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれています。その出雲風土記に黄泉を指す地が登場するのです。それは出雲郡宇賀郷の条で北の海の浜に脳の磯という場所があり、そこから西に行ったところに岩窟があり、その奥は人が入ることができない。夢でこの岩窟あたりに行くと必ず死ぬ。よって地元の人は黄泉の穴と呼んでいる、と書かれています。(萩原千鶴著の出雲風土記だと黄泉の坂とも書いてあるのですが、原文は黄泉の穴となっています。)
 ここで興味深いのは黄泉という言葉がすでに奈良時代には存在したということです。前回日本書紀にはイザナギがイザナミを封じた場所は泉津平阪であると書いていたのですが、もし日本書紀を書いた役人が黄泉と書こうとしたところを泉津としてしまったなんて間違いを犯すのでしょうか?やっぱりおいらは黄泉≠泉津だと思っています。しかも黄泉という言葉もその当時存在した可能性もあると思っています。ただそれをヨミと読んでいたの
か、漢読みhuáng quánと読んでいたのかはわかりません。
 どちらにせよ、出雲には黄泉の穴というものがあり、夢であってもそこに至ると死んでしまうというのは、見てはいけないとか禁忌としての存在なのか、それとも出雲にも地中に死者の世界があって、そこへつながる穴として考えられていたのかもしれません。

  今回はその見たら死んでしまうといわれている黄泉の穴に行ってみました。

 実は猪目洞窟は昭和23年に船置き場の拡張工事をするために石灰石の堆積した場所を掘ったところ、弥生時代から古墳時代にかけての人骨が十数体出てきたそうです。

 ここでも黄泉の坂といった単語が出てきます。どんだけ古事記の黄泉比良坂の坂とつなげたいんだろう?と考えていたのですが、もしかしたらこれは海坂といった考えにつながっているのかもしれませんよね。古代の人は水平線を見て、海の彼方には坂があり、そこから先が常世の国・死者の世界と考えられていたのかもしれません。そういった思想を踏まえたうえで坂という表現を用いたのだとすれば、やはり水平的な海人族の思想を踏まえているのかもしれませんよね。

それでは皆さんさようなら、、、、、

見ちゃった、、、ちょっと高千穂にあった天の安原に似てるかも、、、


とりあえず祠に参拝、小心者につき何事もないように、、、、パンパン


途中に小さな柱が立っていました。ここから先が黄泉の世界ってこと?

さらに奥に行ってみましょう。

奥は斜めの隙間になっています。このあたりでもうおいらはしゃがみ歩き状態です。中ではぴちょんと水の滴る音、、

ここが入る限界点です。これ以上は体を薄っぺらくして入らなければ、、、、
そうか!ダイエットしないと黄泉の国の住人にはなれないのか、、、、

一番奥から外を撮ってみました。

実際はこんな感じです。黄泉から地上を見た伊邪那岐の気持ちが感じられます?

はあ、無事生還しました。おいらはスピリチュアルなセンスはないのですが前回の黄泉比良坂よりもよっぽど背中はゾクゾクしましたよ。今回も車に家族を残し一人で行ったので「おおおおお」と一人ではしゃいでいました。


 洞窟の上にあった「三界唯一心」の碑です。これは三界(欲界・色界・無色界もしくは大千三千世界)のすべての減少は心によってのみ存在し、また、心のつくり出したものであるということだそうです。何故このような碑がここにあるのかはわからないのですが、おいらはこっちのほうが興味がありました。確かに「三界・唯一・心」と読むと唯心論の考えになるのですが、「三界・唯・一心」と読むとすべての物事は考え方を一つにすることだという意味になることもあるなあと思いました。
 そういえば『葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー』著者の梅原猛氏は彼の著書『空海の思想について』で「しかし、ここで、身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体をのぞいて、どこに、われわれの住む世界があろう。身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。密教はあの唯識仏教のように、単なる唯心論ではないのである。そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。」と語っています。

 そんなことを考えていて今回の黄泉探し、、、実は場所としての黄泉なんてどうでもいいことで、要はその人それぞれにとって心の中に黄泉があり、それは自分の身体なしでは語れないことなのだということを考えながら次の目的地へと車を走らせていました。