天孫降臨伝承を訪ねる (2) 大阪府交野市 星田妙見宮

 星田妙見宮は正式名・小松神社とも呼ばれる大阪府交野市にある神社です。明治の神仏分離で小松神社と改号し、現在は星田神社の境外社となっているようです。伝承によると住吉四神を祀る前にこの地には大きな杉の木があり、それを交野大明神としてあがめていたのが始まりとも云われています。創建は弘仁年間(810年~823年)で、交野には、当時この地域で修行をしていた弘法大師 空海が、獅子窟寺で法を修められたとき、その法力により天上より七曜の星(北斗七星のこと)が交野の地の三箇所に降ったとの降星伝説があります。星田妙見宮はその内の一つを御神体として祀る神社です。他の二箇所は同じく交野市にある「星の森」と「光林寺」で、そちらにも天から降ってきた石が祀られているそうです。


入口にある小松神社の標石です。


ここからまずは参道を登り拝殿のほうに行きますが、結構石段がきついです。

さあ頑張って登りましょう。


のぼるルートは2ルートあります。


上に登るとこんな素晴らしい眺めが待っています。


拝殿に到着です。


拝殿の裏にあるご神体の織女石です。

 もともと星田妙見は弘法大師が開眼供養した仏閣で、明治の神仏分離で祭神は造化3神に改められ、その後国家神道の体系・教義に組み込まれ、現在もその陰影を引きずるものと思われます。実際伊勢神宮の大麻と北辰信仰の霊札が一緒に売られている様は確かに異様に思えました。


 さて、拝殿を見てみましょう。もともとはおそらくこの後ろにあった「織女石(たなばたせき)」を磐座とした山岳信仰の社であったと思われます。貝原益軒著『南遊紀行』(元禄二年、1689)には「谷の奥に、星の森あり。星の社あり。その神は牽牛織姫なり。」と書かれています。つまり明治以前の星田妙見はまさに磐座を神とした牽牛・織姫伝承を軸とした社であったと思われます。

 牽牛・織姫伝承といわれる七夕伝承は中国、韓国、日本と東アジア中心に伝わっている伝承で、古くは中国の漢の時代に編纂された『文選』の中の「古詩十九首」のなかに初出されています。まあ一説によるとミノタウロスと伝承や牛頭馬頭、中東のモレクと牽牛織姫はつながるとも言われていて世界的な伝承とも考えられています。ストーリーとしては天帝の娘の織姫(おりひめ)は、機織(はたおり)に精を出すばかりの生活を送っていました。不憫(ふびん)に思った天帝は、天の川の向こう岸で働く若者・牽牛とめあわせることにしました。ところが、いざ一緒になってみると、ふたりは遊び暮らす日々を送るようになってしまったのです。これを苦々しく思った天帝はふたりに命じ、年に一度7月7日の七夕の夜だけ会わせることにして、もとのように天の川の両岸に離ればなれに住まわせることにしました。それでふたりは、今でも年に一度の逢瀬(おうせ)を楽しみに、機織りと牛の世話に精を出しているといわれています。


拝殿の左横にある別棟の社殿には、右に『鎮宅霊符神』が左に『三宝荒神』が祀られています。



鎮宅霊符神との相殿に祀られている『三宝荒神』とは、本来は仏教でいう仏法僧の守護神だったが、神道の荒ぶる神や修験道・民俗宗教などと習合して三面六臂の忿怒相で表されるそうです。強力な僻邪力(ヘキジャリョク)をもつとされ、火の神・竈神・ご不浄の神などと習合し、家宅の裏側にあってその家を守護するとされています。ただし粗末に扱えば非常な災厄をもたらす怖い面も併せもつといわれています。


拝殿内の小祠には、祭神名・チンタクレイフ神・スサノヲ尊・ニギハヤヒ命を記す神額が掲げられ、その前に“八稜の鏡”と“玄武像”が置かれています。これらは、廃仏希釈前には拝殿に安置されていたもので、鏡の裏には「鎮宅霊符神=天御中主命、元治元年甲子(1864)とあるといわれています。




 日本では日本書紀に七夕伝承と類似した記述がいたるところに登場します。まず出てくるのは「アマテラス」と「スサノオ」との誓約(うけひ)のシーンです。皇祖神である女神アマテラスは、高天原(天界)では機を織る天津神として表現されるようにまさに「織女(おりひめ)」そのものであり、国津神である男神スサノオは、別名を牛頭天王と表現されるようにまさに「牽牛(ひこぼし)」そのものと見ることができます。そしてこの二人は 天の川をはさんで対峙しているわけです。もし女神アマテラスが日本書紀編纂時に作られた神であるとしたら、まさに日本の七夕伝承もこの時に中国の伝承と重ね合わせ作られたとも考えられるのです。

 そう考えるとちょっと面白いことが考えられませんか?本来記紀ですと姉弟の関係のアマテラスとスサノヲは実は夫婦神であった可能性があるのです。アマテラスとスサノヲの誓約(うけひ)のシーンでは、母(イザナミ)のいる根の国に帰りたがっていたスサノヲが姉のアマテラスに別れを告げようと高天原に登っていきます。すると大海がとどろきわたり山岳が鳴り響いたのでアマテラスはスサノヲが高天原を奪いに来たのだと勘違いし、弓矢を携えて勇猛な振る舞いと厳しい言葉でスサノヲを詰問しました。そこでスサノヲがその疑いを解くために誓約(うけひ)をしようといいました。そして二人は天の安原を挟んで誓約を行いました。スサノヲは自分の生んだ子が女だったら汚い心があると思ってくださいと言いました。その後アマテラスは3人の女神を生み、スサノヲは5人の男神を生みました。これによりスサノヲは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言しました。その後アマテラスは、この5男神を高天原に残し、3女神を宗像に降ろしたと記述されています。

 でもこれがもし七夕伝説の夫婦であったら興味深いですよね。アマテラスが織姫、スサノヲが牽牛であったのなら、まさに天の安原は天の川ということになります。そして織姫には5つの男神はこと座を構成する5つの星々ということにもなりますよね。では3女神はなんでしょう?実はわし座の彦星こと
「アルタイル」は16.8光年の近距離にある星です。猛スピードで自転しているため、星自身が重ね餅のように扁平にひしゃげているといわれています。その「アルタイル」と両わきの3つの星を、中国では、肩にかついで打ち鳴らす細長い太鼓(たいこ)の形と見立てて、「河鼓三星」などとよんでいました。以前おいらはオリオン座の三ツ星こそ宗像三女神ではないかとブログに書いたのですが、わし座も実は天の赤道上にあります。つまり古代の航海士は冬の三ツ星はオリオンの三ツ星を使っていて、夏の三ツ星としてわし座の河鼓三星を使っていたのではないかと今回は考えています。

 そんな夫婦神と3女神、5男神を祀る行事が日本には昔から習俗として存在しています。それこそ桃の節句の雛祭りなのです。もともと雛祭りの起源は諸説あり定説はないのですが、
古代中国の上巳節(三月の初めの巳の日という意味)の風習で、紙で作った人形に自分の厄災を託して海や川に流す祓の行事の事があったといわれています。そこに記紀編纂以前の神の姿があったとしたら非常に面白いですよね。男神スサノヲと女神アマテラスを内裏様として頂上に据えて、その下に「うけひ」で生まれた三人官女の宗像三女神、その下に五人囃子の五男神という姿を残していたとすればすごく面白いですよね。もっともスサノヲが牛頭天王と習合したのちの牛頭天王之祭文によると娑伽羅龍王の三女の婆利采女を后にしたとあり、そこで生まれたのは3女神5男神ではなく8男神(山本ひろ子著『異神』によると7男神1女神)となっています。ともあれこういう風習とか習俗の中には、本当の歴史が隠れているかもしれないと思うこと自体、ロマンがありますね。

 話は七夕からひな人形まで飛んでしまったので少し戻します。七夕伝承自体も天孫降臨伝承と何らかのかかわりのある伝承ではないかとおいらは考えています。かの折口信夫は七夕を「たなばた」と読み、織女を「たなばた」と読むのは、我が国古来からの「棚機津女(たなばたつめ)」信仰が、中国から伝わった七夕伝説と習合したためと言っています。そして、中国から七夕の行事が伝わった時、それが急速に受け入れられたのは、我が国に以前から棚機津女信仰が存在していたためであるといわれていますまた棚機津女は、水辺で機を織りながら神の訪れを待つ少女のことである。日本書紀は、瓊瓊杵尊の妃となる木花開耶姫(このはなさくやひめ)をも、神代下第九段一書第六において、そうした棚機津女として描いています。すなわち、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」と表現しているのです。

 こうした七夕信仰が受け入れられる土壌として存在していたのがここ、
河内交野原の天棚機比売を祭神とする機物神社と今回の星田妙見宮、そしてニギハヤヒの天孫降臨伝承の磐船神社なのでしょう。ただこれが物部氏の伝承に基づくものなのか、もともと棚機津女信仰がこの地に存在し、その後中国からもたらされた七夕と習合したのかは今となってはわかりません。


 この星田妙見宮の面白いところは、日本で二番目に古い隕石の落下記録があり、実際に落下した場所がそのまま残っているというところです。実際のところ、星が降ってきたというよりは、隕石が落下し、この地で大爆発をしたというのが真相のようです。これはわが国の隕石落下記録上、二番目に古いとされる弘仁七年(八一六)の星の降臨によって、この山の大部分が吹き飛ばされ、馬蹄型になっています。山を登りながら、当時の衝撃のすさまじさ、宇宙の神秘を感じてみるのも一興です。