葛城と土蜘蛛
葛城にある一言主神社にはもう一つ不思議なものがあります。それは土蜘蛛塚の存在です。土蜘蛛とはヤマト王権に従わなかった氏族の別称でその後には都を脅かす妖怪となっていくものです。土蜘蛛に関する記述は、神話の時代から大和朝廷の拡大期までに見ることができます。その多くは大和朝廷の勢力圏境界付近に住む豪族で、大和朝廷の支配を拒み、天皇や天皇の差し向けた軍によって討伐されました。もともと土蜘蛛自体洞穴に住む蜘蛛のことなので、古代では稲作中心に生活していた弥生人にとって、洞穴や穴を掘った住居にすむ縄文人を指した別称だったのかもしれません。また、製鉄に携わる人々も山に住み、稲作民とは隔別した生活を行っていたので彼らを指す言葉だったのかもしれません。初めに土蜘蛛の記述が出てくる文献は『古事記』で、神武天皇東征のおり、忍坂(現・奈良県桜井市忍阪)にて穴倉に住む尾の生えた種族「土雲」を討ったとの記述があります。興味深いのはこの忍阪の近くに出雲という地名もあるのです。出雲という地名は「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)」という神代のスサノヲが詠んだ日本最初の和歌に登場するのですが、この「八雲立つ出雲」という言葉も、「焼雲立つ出鉄(いずもの)」というたたら製鉄を指しているという説もあるのです。こう考えると出雲と製鉄と土蜘蛛はなんだかリンクしてくる感じがしますよね。たたら製鉄でのぼってくる煙が蜘蛛の足のようにも見える気がします。そうすると製鉄の民が出雲と呼ばれていた可能性もあるのですが。もう一つ考えられるのが土師氏の関与です。当時の古墳時代では古墳の周りに置く埴輪が大量生産されていました。その登り窯があたかも蜘蛛に見えるのです。窯自体が胴体でそこからのぼる煙が足とも考えられます。また当時朝鮮半島から渡来した技術でオンドル(今でいうセントラルヒーティング)が畿内にもたらされていました。それぞれの家からのぼる湯気が雲のように見えたのかもしれません。いずれにしても製鉄や陶芸、家々の出てくる煙や湯気の多いさまが出雲という言葉であったのかもしれません。
ではこの葛城にいた土蜘蛛とは誰のことを指しているのでしょう?雄略天皇のより滅ぼされた人々でしょうか?またもうひとつ興味深いのがここ葛城は蘇我氏の発祥の地でもあるのです。根拠としては日本書紀の推古天皇の記事の中に、葛城の地の領有を願った蘇我馬子の奏言としてこう記載されています。「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり」(葛城の地は元々私たちの本貫です。その県に因んで蘇我葛城氏の名もあります)また後の皇極天皇の記事にも、蘇我蝦夷が自分の祖廟を葛城の地に立てたことが記載されており、少なくとも7世紀前半の蘇我氏は、発祥地を葛城だと考えていたと思われます。つまり葛城氏は4世紀の頃から5世紀、河内王朝とも呼ばれる時代には最大の勢力を持つ氏族でした。その後、雄略天皇に滅ぼされ、葛城氏を構成する蘇我氏・忌部氏・秦氏・加茂氏等々に分かれ葛城から四散しました。蘇我氏は河内の石川に、秦氏・加茂氏は山背の鴨川・桂川流域に拠点を移動させたのです。これはもしかしたら強制移住であったのかもしれません。そこで彼らは治水技術を生かし稲作を発展させ、やがて天皇家をもしのぐ力を持ったと考えられます。そうすると土蜘蛛とは雄略天皇に滅ぼされた旧王朝も考えられるのですが、乙巳の変(大化の改新)で滅ぼされた蘇我王朝そのものだったのかもしれませんよね。
というわけで今回は葛城の蜘蛛塚のご紹介です。
本殿の横にあるのですぐわかると思います。
そしてこれは高天彦神社にある蜘蛛塚です。これは後からネットで分かったのですが、スルーせずに写真にあやしいともったものを撮っておくのもいいですね。ちなみに参考にさせていただいたHPは「邪神大神宮」です。出典もとが定かでないのが残念です。
最後にこの高天彦神社の近くに蜘蛛窟の碑があるので探したのですが
これは高天彦神社の前にある鶯宿梅です。その昔高天寺の小僧が若死にしたのでその師が嘆いたら梅の木に鶯が来て、「初春のあした毎きは来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたといわれています。
ここからまっすぐ歩いたのですが、途中フェンスで行き止まりになっていました。
でも開けられたのでそのまま道をすすんでみても何もありません。
さびれたお地蔵さんがあり、これか?と思ったのですが違いました。
一人で散策するにはちょっと勇気が要りました。
その後一度上まで戻ってから再度探すとなんだか道が変わっていることに気がつきました。
こんな公園ができていて
入園料200円を払い再度捜索
そうすると少し進んだ右手にありました!
こんな風にフェンスの奥にあったのですが、200円払って見に行く価値があるかどうかはあなた次第です(笑)
裏には皇紀二千六百年を記念して神武天皇の聖跡ということで建てられたようです。
皇紀二千六百年というと昭和15年でしたっけ?
まあ後付けだろうが、私有地にポツンとあるところがいいですね。一人で探すと背中のあたりゾクゾクすること請け合いです。
次回は尾張氏発祥の神社と鴨都波神社をご紹介します。

