こんちゃん の 九州歴史探訪(6) 神門神社 後編

 さあ、いよいよ百済王伝説も最後となってきました。伝承によると天平勝宝8年に百済王の禎嘉王と福智王が日向にたどりつき、禎嘉王が神門神社のある美郷町南郷区に、福智王が木城町の比木にそれぞれ居を構えたとされていましたよね。その伝承を再現するがごとくこの地には「師走祭り」というお祭りが伝わっているのです。この祭りはこの王族の親子が年に一度対面を再現する珍しいお祭りとなっています。ただ、興味深いのは天平勝宝8年(756年)は日本では聖武天皇が崩御し、遺品を東大寺におさめたのがこの年となっています。つまり正倉院の始まりの年がこの天平勝宝8年なのです。これは単なる偶然でしょうか?いや、おいらはむしろ百済王の伝説がそれよりも前にあり、聖武天皇が亡くなった時に遺品を全国に散らばらせ、百済王の菩提を弔ったという気がするんですよ。
 前回の話で天智帝が翹岐ではないか?というお話をしましたよね。もっと興味深い説が、古田武彦著「失われた九州王朝」に記されている幻の九州王朝の話です。実は壬申の乱は九州が舞台だった、そしてこの失われた九州王朝の末裔が実際の百済王の伝説となってこの地に残っていたのだとすると非常に興味深いと思いませんか?もっとも九州王朝説自体が現在では東洋史・日本史学者からは批判されていて、主要な百科事典や邪馬台国論争史を記述した研究書には記載されずに無視されている説であることは周知のこととは思いますが、一古代史ファンとしては考慮してもいい内容であると思っています。その線で考えてみるとこの地に逃れてきた王族はまさに九州王朝の残党であった可能性も考えてみてもいいのかな?と思いました。実際日本書紀には次のような記述があり、九州王朝が一部残存していた形跡がみられると主張する人もいます。
養老元年(717年)11月17日 武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない。
養老4年(720年)2月29日大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。このとき戦勝祈願と兵士協力のため宇佐の地から相当数の兵を動員させた。
養老七年(723年))4月8日 大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている。
養老七年(723年)5月17日 大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた。
と、南九州に対し隼人討伐という名目で相当数の兵力を動員しています。これこそおいらは隠された百済王残党狩りではなかったかと思っています。つまり百済王伝説で南郷村神門にいた禎嘉王と福智王が滅ぼされたのは養老4年(720年)の隼人の反乱時だと思っています。
 そしてその36年後の天正勝宝8年(756年)聖武天皇崩御の際、それまであった九州王朝の呪われた遺品を全国に分配し、その霊を弔ったのではないかと考えました。つまり神門神社の数々の宝物や師走祭りの祭祀は亡き九州王朝を怨霊と考えた御霊信仰だとも思ったのです。ちょうどそのころは長屋王と藤原四子の事件により「冤罪で死んだ者が怨霊となる」という土壌が出来上がり、災害や天然痘、さらに大仏建立による水銀中毒とさまざまな出来事が多発したのでそのような結果となったのではないかと考えられます。
 ただちょっと興味深いのがこのときに配布されたであろう鏡の行方です。実は神門神社に納められていた鏡と同范鏡で二種類以上関連を持つ鏡が納められている場所は、千葉県の香取神宮と三重県神島の八代神社の2か所なのです。しかもこの3か所、偶然かもしれませんが日本地図上で一直線上に並ぶのです。

 大和文化研究「神門鏡と同文様鏡について」岡崎譲二によると
「現在のところ国内で由緒正しいと思われる鏡相互間では二十種類があげられるに過ぎない。神門鏡はその三分の一にもあたる関係品を持つ。さらに古墳時代の馬鈴、馬鐸、鉄剣も伝えられている。こういった五世紀~八世紀にかけての遺物の集合体は当時の南九州の文化を考える上で重要な手がかりと考える。
 神門神社と八代神社、この両グループの鏡が合い隔たらぬ時期に、同じ事情で伊勢湾の孤島と日向の奥地に分配されたものであろう、単なる偶然では考えられないコンビネーション、こうして見ると、八代神社、神門神社両社に分配された鏡類は同種の品々が国内の多方面にある程度まとまった員類で頒けられたことも想定できる。」
とあります。
つまり何かの目的のため、日向・神島・香取と分配された、それが絶妙に日本列島に直線状にならんでいるのです。最初は正倉院を東西に軸をとり傾きを見てみたのですが23度と中途半端な傾きなんですよー
これが28度ぐらいだったら冬至の日の入り角度となって「レイ・ライン」じゃん!ということになったのですが、、、、残念
でもいろいろ検討するとそこにはいろんな奈良時代創建と伝えられる重要な神社、仏閣があり、何かを意図したことは感じられるのですが、、、、
(高知県・神峯寺、和歌山県・道成寺、伊勢神宮・滝原宮・内宮、静岡県小国神社、静岡浅間神社、千葉県香取神宮)
これがいま騒がれている大地震を引き起こすと言われている南海トラフと走行は一致するのかな?とちょっと考えたりもしたのですが香取神宮も地震の鎮めの要石がありますしね。またその辺はゆっくり検討していきたいと思っています。

百済の館
百済の館は百済の最後の都となった韓国の古都「扶餘(プヨ)」の王宮跡に建つ、(元)国立博物館の「客舎」をモデルに作られたもので百済時代の宝物や重要文化財のレプリカ等が展示された百済の資料館となっています。

瓦や敷石は韓国からとりよせ、赤、緑、青等、極彩色の丹青は本場韓国の数少ない資格を持つ職人たちの手によるものだそうです。

当日は百済の里南郷温泉春祭りの最中で韓国の伝統舞踊が披露されていました。

中はこのように日本と韓国のつながりをパネルで解説してありました。

この辺の話と神籠石とがつながると興味深いですよね。


こんな感じで韓国の衣装にコスプレもできますよ(笑)

塚の原古墳
神門神社の祭神となっている禎嘉王の墓と伝えられる円墳で自刃した官女数十名も葬られていると伝わっています。
実際円墳とみられるのですが、10mほどの前方後円墳だそうで、本当にこれが禎嘉王の墓でしたら百済人というよりは彼らは倭人ということになりそうですよね。

「師走祭り」ではお祭りが終わると「下りまし」と比木の神様がお帰りになります。

このときに村のはずれに立つ婦人たちは「おーさらばー」 と何回も繰り返し叫ぶそうです。実はこの「おさらばー」韓国語では「生きてまた会いましょう」という意味があるそうで、中世になって別れの挨拶にになったそうです。

古代から面々と津ずく祭りだとしたら、この「お―さらば―」はまさに今生の別れの挨拶だとしたら凄く重い言葉ですよね。

そんな言葉を胸においらはこの地を離れました。
今回の百済王伝説と鏡のつながりは後日神島・八代神社と千葉・香取神宮に赴いてから再度考察しますね。

それでは「おーさらばー」