九州歴史探訪(1) 香春神社

 

 このGWを利用しておいらは九州を福岡から大分、宮崎、熊本、とぐるりと巡ってきました。特に行きたかった香春神社、宇佐神宮は実はおいらが卑弥呼のお墓があるのではないかと考えている場所なのです。そんな古代のロマンもからめながらいろいろご報告していきますね。

 21世紀の現在、邪馬台国(魏志倭人伝の正式表記を用いると邪馬壱国)は九州説と畿内説に分かれていて、歴史学者の説もいまだ定まってはおりません。ただ、伊都国や奴国といった国は北部九州に実在していて、そういった観点から考えるとおいらはまず九州の北半分に存在しているのではないかと考えているのです。以前伊都国の平原遺跡をご紹介させていただきましたが、この遺跡も卑弥呼の墓候補の一つです。ただ、ほかにも気になる場所が2か所あったので、今回はその一つの香春神社をご紹介しますね。

香春神社
 

所在地:福岡県田川郡香春町大字香春733
御祭神:辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命

由緒:この神社は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命の三柱をそれぞれ香春岳の一の岳、二の岳、三の岳の山頂に奉祀していたものを元明天皇の和銅二年に一の岳の南山麓に社を築き三神を合祀して香春宮と尊称したと伝えられています。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社で、辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)のことだったが、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早いのです。延喜式神明帳によると豊前一の宮の六座のうち三座はこの香春宮にあったとされ、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもあるそうです。
 
麓の町道から境内へと石段が続いています。
 

 
途中このような池もありました。
つるは当然人工物です。
 
かなり登ったところに本殿がありました。
 
うっそうと茂った森の前にその社は鎮座しています。
 
こちらが本殿です。神明流造の本殿となっています。
 

 
創建年月はわからないそうです。
 
ほぼ南を向いています。

 
 本殿の傍らには神像が鎮座していました。
 
 おそらく辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命を模したものでしょう。
 
 本殿横の謎の石積と石碑がありました。
 
 これは一体何なのでしょう?ご存知の方がいらっしゃったらぜひ教えてください。

境内社:天福神社、諏訪神社、蛭神社子です。
 
これは山王石といい、昭和十四年六月三十日午前三時に一の岳山頂からこの石が降ってきたのですが、社殿は直撃せずこの位置に鎮座したのです。

いろいろな謎をおいらに与えてくれました。
①辛国息長大姫大目命とは一体どのような神だったのでしょう?
②なぜこのように社格の高かった神社の一の岳を削らなくてはならなかった理由とは?

それらを考えると非常に興味深い事実がうかがわれるのです。

まず①の辛国息長大姫大目命について考えていきましょう。

ここに出てくる辛国とはいったいどのような国なのでしょう?

豊前国風土記(天平5年733頃成立)・逸文に「田河郡・鹿春郷(カハル)。この郷の中に川があり、年魚(アユ)がいる。この河の瀬は清いので、清河原(キヨカハラ)の村と名づけた。いま鹿春の郷というのは訛ったのである。昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来着し、この河原に住んだ。郷の北に峰がある。頂上に沼がある。黄楊樹(ツゲ)が生えている。また竜骨がある。第二の峰には銅と黄楊、竜骨などがある。第三の峰には竜骨がある」との一文があります。竜骨とは獣骨の化石のことで、古くは竜の骨と称し、道教では不老不死の仙薬とされていました。つまり辛国とは韓国が訛化したものとも考えられ、まさに新羅から渡来した神だと考えられるのです。そして息長と言えば応神天皇の母・息長帯比売(オキナガタラシヒメ、神功皇后)を連想させますよね。実際『太宰管内志』では辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されています。また豊前国風土記・逸文に、「田川郡・鏡山。昔、息長足姫命が此の山に登られ、新羅征討の成功を祈って鏡を安置された。その鏡が化して石となり現に山の中にある。それで鏡山という」との一文があり、神功皇后は当地と無関係ではないとも思われるのです。ではそれがなぜ卑弥呼につながるのかといえば、『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、中国晋の文献における倭の女王についての記述が引用されています。しかしながらこの年は266年で卑弥呼はすでに死去しており、この倭の女王は壹與の可能性が高いとされています。そう考えるとここ、香春神社に祭られている辛国息長大姫大目命とはズバリ壹與なのではないのでしょうか!?

 そんな想像をしながら香春神社に到着したおいらの目の前に想像もつかない光景が広がっていたのです。それは眼前のまさに壹與が葬られていた可能性も高い一の岳が無残にも削り取られていたのです。

 現在の香春山一の岳は現在の太平洋セメントの前身、浅野セメントによって1935年に浅野セメント香春工場として操業を開始しました。その後浅野セメントは1947年に日本セメントと社名変更、1998年に秩父小野田と合併して太平洋セメントとなり、2000年に香春工場は生産構造最適化のため、本体から切り離されました。1935年に日本セメントが採掘を開始し、同山の標高は492mから270mに低下しました。平尾台の石灰石鉱山では山の斜面が虫食い状態だが、香春鉱山は周囲が住宅地のため落石を防ぐ必要があったのか、山頂を切り取った後に内側をベンチカット方式で切り込んでいるそうです。現在では無残に削られたまったいらな山頂を地域住民は複雑な心境で見上げています。


 
下から見た香春山の一の岳です。  
 
遠方から見ると山はこのようになっています。
 
近くに見えたセメント工場です。
 
まるで昭和の名残を感じます。

せっかくなのでグーグルから上から見た香春山を添付しておきます。
大きな地図で見る

本当に残念な姿になってしまいましたよね。

さて二つ目の疑問、②なぜこのように社格の高かった神社の一の岳を削らなくてはならなかった理由とは?なのですが、まさに先ほど出てきた香春神社が新羅の神様だったことが一つの原因ではなかったかと考えられます。この香春山にセメント工場ができ、まさに削られ始めたのは昭和10年(1935年)という時期で、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった年代とも一致します。そんな気運の中、朝鮮半島由来の神様が祀られているところはあまり重要視せず、むしろ為政者から見れば天皇の出自を脅かす問題ある神社であったとも考えられるのです。

 そんな所業をした浅野セメント香春工場ですが、その後日本セメント、太平洋セメントと会社が変わり、近年の国内のセメント需要は公共事業の削減を受けて激減した。香春工場は「将来の需要回復が望めない状況では、その生産規模ならびに内陸工場であるという点から、他工場に比べコスト高の状況にある同社の存続は極めて難しい」(太平洋セメント)と判断され、2004年に解散させられた。晩年の生産量は年産80万トンだったそうです。

 その後この会社を引き継いだのが麻生ラファージュセメントでかの財務大臣、麻生太郎はこの会社の御曹司なのです。これまでの話はどこまでが真実なのかは定かではありませんが、もしかしたら卑弥呼の後継者たる壹與の埋葬地を近年、昭和になってから墓もろとも削ってしまった。しかし近年の古代史ブームでいつこの問題が再燃してくるとも限らない、そういった配慮から、マスコミが邪馬台国畿内説へとプロパガンダをしているのでしたら非常に興味深いと思うのですが事実は歴史の闇の中に、、、、、