持統上皇三河行幸 その十九 遠州遠征説(3)

 さあ、話も佳境に入ってきて今回も持統上皇遠州遠征について考察していきたいと思っています。まず前回のおさらいですが、もともと持統上皇の遠州遠征説を出したのが江戸時代の国学者、賀茂真淵でしたよね。(1768『
万葉考』)これは浜松市にある曳馬という地名が万葉集で持統上皇の三河行幸に際して詠んだ長忌寸奥麻呂の「引馬野」という地名に比定するとしたのが始まりといわれているのですが、実は愛知県の御津に住んでいた渡辺富秋が『統叢考』(1723)にこの「引馬野」とは愛知県豊川市御津の御馬に比定するとしたのですが、江戸での知名度からしばらくは遠州説が有力となっておりました。其処に御津出身の医師であり歌人の今泉忠芳(御津磯夫)先んじて論文に発表、それに追随するように東大の国学者、久松潜一、さらにその弟子の久曾神昇(愛知大学名誉教授)によって論じられ、現在では引馬野三河説が有力となっています。万葉集の記述と続日本紀の記述から三河に持統上皇が行幸したのはほぼ間違いないのですが、特に続日本紀に記された空白の1ヶ月は様々な人が論じ検討されるものの、あまりにその史料の乏しさからその目的が確たる定説に至っていないのが現状です。
 一般的には国学者の意見として、壬申の乱による論功行賞を三河にも行ったためとか、夫である大海人皇子の足跡を訪ね冥福を祈ったなどのロマンティックな説が言われています。中でも興味深い説として、『エミシの国の女神』の著者、菊池展明氏のエミシの神たるアラハバキ・瀬織津姫の封印説や、『穂国幻史考』の著者、柴田晴廣氏の軍事行動失敗説は非常に興味深く読まさせていただきました。ただ、生来の天の邪鬼的な思考をするおいらとしては、どうも定説ではなく、もっと何か根本的なところで持統上皇は西に向かわなければならなかったのではないかとも考えたのです。
 そこで考えたのが地震説です。日本書紀によると684年(天武13年)10月14日(新暦11月29日)に東海から近畿、四国を中心としたまさに現在巷で騒がれている東海・東南海・南海連動型地震が起ったのです。この地震は白鳳地震と名付けられ、おそらく土佐、紀州、志摩、遠江、駿河といった太平洋に面した海岸線に住んでいた人々は相当の被害にあったものと考えます。この出来事により天武政権を支えていた海人系渡来人もその経済基盤に大きな痛手を被り、2年後天武天皇は草薙の剣の祟りとともに亡くなっていくのです。その後天皇を継いだ持統天皇は、その祟りを解消するため大和にあった仏教伝来前の神を伊勢に移動させ、大和に最新の仏教という思想と中国よりもたらされた陰陽五行の考え方で国を支配しようとしました。そしてその最新の考え方を用い、最終的には常世の国にある霊峰富士山こそ国の要と考えたのではないかと思ったのです。持統上皇が自ら西に行く理由は他にもあったのかもしれません。まだその当時唐という強国の脅威は存在しており、藤原京に万一攻め込んできたらという恐怖はつきまとっており、その逃走経路の確認という目的もあったのかもしれません。しかし、どうも日本書紀の記述を読んでいると、その当時の天皇の行幸とは天皇の権威を示すためのパフォーマンスであり、その行く途上での様々な物の大盤振る舞いを考えるとあまり軍事的な色は感じず、むしろ今で言う遊興旅行の気分だったのかもしれません。ただ、最後の三河行幸だけはどうも腑に落ちないところがあり、それは行幸後わずか1ヶ月で持統上皇が亡くなっていることです。そしてその前の記述に病が重くなったと書いてあることからどうやら三河行幸中も何らかの病を抱えての行幸であった可能性はあると思っています。その死を間際にした彼女の目的とは一体なんだったのでしょう?またそれは三河や遠江に行くことが目的だったのでしょうか?その疑問の答えは全く別のものであったのかもしれません。つまり西(南)に行く船に乗るという行為そのものが目的だったとしたらどうなのでしょう?

今回の考えの発想の原点となった久能山東照宮です。
 

 久能山東照宮は現在では祭神は徳川家康となっていますが、その昔は久能寺という推古天皇の頃に建立されたと言われているお寺がありました。この久能寺を建てたと言われる久能忠仁(くのうただひと)は寺記によると駿河守に任じられた時に観音像を得てこの地に安置したそうです。またもう一説には秦川勝の次男、尊良の子が作ったとの説もあります。
 

金の霊像
 
秦の久能(ひさよし)は元来信仰の厚い人で朝夕仏を礼拝し「どうぞ千手観音のお姿を拝ませてください」と祈った。ある夜一人の老翁が夢の中に現れ「汝が正身の観音像を拝みたいならば、駿河国有度山に赴き浦風の吹く時を待て」と告げた。久能は夜が明けると、共も連れず教えられた山に行って、あちこちさまよって尋ねた。陽が入ると獣の棲む穴に身を隠し、一心に観音を拝ませていただきたいと祈念した。松を吹く風に夜も更けわたり淋しさは身に迫った。やがて思わずトロトロとまどろむと、先夜の老翁が現れ「我れはこれ布堕落山の僧である。汝の信心を賞で正身の観世音を授ける」と云ったと思うと目が覚めた。
 これは夢かと驚いて身を起こすと、洞穴の正面の樹木の枝に光り輝くものが懸かっている。さてはと飛んで行き、手にとって見れば、御丈け10センチほどのエンブダゴン(金無垢)の千手観音の御像であった。久能は喜んで押し頂いた。
 それから、この山に堂宇を建立して、この霊像を安置した。のちに行基作の観音尊像の胎内にこれを納め大伽藍を建てて安置し奉り山号を「不堕落山」と号し、寺号を「久能寺」と名ずけたというのである。
 
久能山東照宮の神廟(家康の墓があったところ)までは1159段の石段といわれています。今回おいらはイチゴ狩りの腹ごなしで6歳の娘と頑張って上りました。

 また一説には、猟師がこの山中で鹿を追っているうちに、奥山に踏み入り、はからずも正身の観音を拝し、発心して修行し、この山に寺をつくって観音を祀ったともいわれる。久能寺の山号を不堕落山と称するのは、観音大士の住処を意味するからである。此の秦の久能(ひさよし)の墓は「久能山坊中の玉泉院の裏にあり」と古書にある。
 

 今、久能神社として石造の少祠が東照宮の境内(神厩の後方)に祀られているそうです。
 

 秦氏
が創建し、後に僧行基の作った千手観音を安置し補陀落山(ふだらくさん)久能寺と称したと伝えられています。その後、僧行基をはじめ多くの名僧が相次いで来たり建物も三百三十坊も建てられ非常に隆盛を極めたが嘉永年間(1225年頃)山麓からの失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。

 

永禄十一年(1568)武田信玄は久能寺を近くの北矢部(清水市)現在の鉄舟寺に移し久能山上に城砦を築き久能城と称しました。
 

つまり、法隆寺よりも古いお寺が持統上皇が三河行幸をしていた時に現在の静岡市久能山にあったのです。このときおいらの思考がまた一つの仮説としてひらめきました。持統上皇はもしかしたら
補陀落に行きたかったのではないのでしょうか?しかしそれはなぜ?

その解説を次回してみたいと思います。

追記:秦氏と言われる久能氏ですが、阿部氏の末裔で久努氏とのつながりも姓氏家系大辞典に記されています。またこの
久努氏は天武に新しい祭政に文句を言って朝廷への出仕を禁止された「小錦下久努臣麻呂」の「久努氏」にもつながりそうです。しかもこの「久努氏」は物部の一族で国造本紀によると遠江の国造である祖伊香色雄命の孫・印播足尼であり、谷川健一の『白鳥伝説』によると遠江国山名郡久努郷におこったとのことです。物部と秦氏とつながりおいら的には謎となっている部分ですがこれはまた後日検討したいと思っています。