持統上皇三河行幸 その十七 遠州遠征説(1)

 久しぶりの持統上皇三河行幸ネタです。以前十六回という最多連載をしていた持統上皇の三河行幸シリーズ。今回は追補した遠州遠征説を考察したいと思います。そもそもなんでこれを書こうかと思ったかというと、『史料から読み解く三河』田島公編が出版され、その中に原秀三郎先生の「『万葉集』から持統上皇三河行幸を読み解く」という論考を読んで、おいらなりに浜松説というのを再検証してみようと思いました。
 もともと持統上皇が浜松まで来ていたと主張したのは、浜松出身の国学者、賀茂真淵(1697~1769)の『万葉集遠江歌考』において、「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」(巻1)の引馬野を現在の浜松市曳馬野に相当するという見解を示してから長く遠江説で定着していました。その後渡辺富秋『統叢考』に始まり、久松潜一『引馬野、安礼乃崎考』の刊行以来、引馬野は愛知県豊川市御津地区であるという見解が一般的となってきました。
持統上皇三河行幸 その参 三河行幸文献的考察 万葉集編参照)
 実際のところどうなのでしょう?その時の三河と遠江の状況等を考え再度考察してみたいと思います。

持統上皇の空白の1ヶ月と遠江遠征
 まず続日本紀の記述を再確認してみましょう。
大宝2年(702年)
9月19日 伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河に使いを出し仮宮を造営させた。
この記述で遠江という地名は出てきません。明らかにこの5カ国を行幸する予定だったことが伺われます。
10月10日 太上天皇(持統)が参河国に行幸された。
10月14日 大宝律令をすべての国に頒布した。
11月13日 行幸は尾張の国に到着した。
とあります。つまり持統上皇が三河国に滞在していた期間はおよそ1ヶ月であったことが伺われます。

ではその一行の移動速度はどれぐらいなのでしょう?これは尾張から美濃への移動速度は仮に尾張と美濃の国分寺とされている場所を移動したと仮定すると現在の愛知県稲沢市から岐阜県不破郡垂井町まで35km(NAVITIME使用)、これを2日で移動したと換算すると1日あたり17km超と考えられます。(木曽三川渡河を1日)また、美濃から伊勢まで同様に67.5kmの行程を4日間で移動しています。ここからは1日あたり17km超と計算できます。このことから持統上皇の一行の陸上の移動速度は1日約17kmほどが考えられるのです。

 この計算式を利用して三河から出立した日を計算してみましょう。三河国分寺跡(豊川市白鳥)から尾張国分寺(稲沢市矢合)まで81km、その間矢作川を渡河するのに1日かかったとして、約6日かかります。そうすると逆算して十一月七日におそらく持統上皇は三河を出立したと考えられるのです。

 さて、こっからが本題なのですが、日本書紀の記述、十月十日太上天皇が三河に行幸されたというのは奈良の出発日を指しているのでしょうか?それとも三河の到着日を指しているのでしょうか?実は日本書紀の持統天皇6年三月三日に重要なヒントが隠れているのです。それは三月三日に伊勢行幸をした持統天皇は、六日に出立し二十日に浄御原宮にかえっているのです。奈良の飛鳥
浄御原宮と伊勢の国分寺跡(鈴鹿市国分町)は距離にして102km、一日17kmの移動と換算すると6日の行程です。そう考えると六日に出立した持統一行は十二日に伊勢国分寺付近に到着、2日ほど滞在したあと十四日に出発し二十日に到着したというのが妥当な見解ではないでしょうか?

 ここから考えると続日本記大宝二年の記述はおそらく十月十日に持統上皇は藤原京を出立し、6日間かけて伊勢の鈴鹿に到着、45kmはなれた松阪市的方へ3日かけて移動、十月二十日に海上より三河を目指したものと思われます。ちなみにこの当時の船を再現した古代船「海王」によると速度は4~5ノットであったといわれています。当時仮に冬型の気圧配置で西風が吹いていたとして松阪の的方から愛知県御津までは直線距離にておよそ50kmは日中の1日で渡りきる行程です。ここから考えると三河上陸が十月二十一日、そして出発が十一月七日となり、旧暦はひと月30日という計算から実際に三河の国にいたのは長くても16日という計算となります。

 ここで以前の伊勢行幸を考えて見ると、現地の仮宮には最低でも2日間は滞在していることから、もし遠江まで持統上皇が遠征しているのなら12日間という強行スケジュールということになりますよね。

 さて、では仮に遠江に持統上皇が行幸したとして、どのようなルートを通ったと考えられるでしょう?このヒントとなる出来事が「細江神社のご神体は津浪によって運ばれた」というエッセイにヒントが出ています。684年に起きた白鳳地震から18年経っているとはいえ、海岸部はまだその当時の津波の痕跡等があったのと、万葉集の276に三河の二見の道(現在の東海道と姫街道)の歌があるように、この時は本坂峠越えが一般的ではなかったかと思います。そして引佐、都田を経由して浜松の曳馬に至ったと考えられるのです。実は豊川市白鳥から浜松市曳馬まではおよそ50kmの道のりで、3日の行程となりますが、本坂峠越えに丸1日かかると思われるので4日の行程と考えればいいと思います。おお、そう考えると12日の間の4日間が移動で実質4日は浜松の曳馬に滞在できることとなり、不可能ではないことになりますよね。


浜松市博物館にあった古代の地形と街道です。

しかも万葉集にあった安礼の崎を今の新居付近に比定すれば、行きは二見の道経由で本坂峠、引佐、都田を通り浜松市曳馬へ、そして伊場を通り、浜名湖から安礼の崎のそばを通り、鎌倉街道にそって豊川に折り返してきたのではないかとも考えられるのです。

 とは言うものの、やはりそんな強行スケジュールと危険を伴う本坂峠越え(中世までは山賊が出没したといわれています)をしたかどうかはかなり謎の部分がありますよね。

という訳で浜松市にある持統上皇行幸の碑を訪ねてみました。中編に続く。