三井寺探訪(1)

新羅善神堂から壬申の乱を考察する 

 以前おいらはブログで、大雑把に大化の改新により百済の王族出身の中大兄皇子(のちの天智天皇)が中心の国家体制となり、彼の死後、義理の弟・大海人皇子と天智天皇の息子・大友皇子(後の弘文天皇)との間に壬申の乱が起り、親新羅政権の天武朝が成立したと書いて一応の落ちがついた感じでした。しかし今回、大津の新羅善神堂を訪問し、いくつかの???が生じ、未だ全体像がつかめなくなってしまいました。一体壬申の乱とは何だったのか?本当に天智が百済出身で天武が新羅出身だったのか?古代の日本にとって新羅とは一体どのように関与していたのか考察してみたいと思うのでおつきあいください。

 まず、今回は大津の三井寺とその周囲を訪問してきたのですが、この三井寺、正式には天台寺門宗総本山「長等山園城寺(おんじょうじ)」といいますが、壬申の乱で命を落とした大友皇子の菩提を弔うために、その息子である大友与多王が開基したと伝えられています。つまり百済側の人間が開基した寺の境内に新羅の神様を祀るお堂があるのです。これは一体どういうことなのでしょうか?疑問が疑問を呼び、是非現地を訪れてみようという気になり、晩秋紅葉巡りをかねて出かけてみました。
 

 新羅善神堂の所在地は三井寺の境内よりも北に500mほど行ったところで、大津市役所と消防署を通り過ぎ最初に左に曲がる道を左折しそのまま坂をあがります。すると左手に弘文天皇陵と表示があり、その上に新羅明神堂があります。
 
 
  

 この新羅明神堂を見てみて思ったのですが、仏教のお堂というよりはむしろ神社としての建築様式でした。

  
 

 現在(国宝)の建物は貞和3年(1347年)に足利尊氏の寄進による物だそうですが、この中に安置されている国宝、新羅明神坐像は秘仏で以前大阪や東京で開催された「国宝三井寺展」にも出品されていたのですが、残念なことにおいらは見逃してしまいました。しかし、その後天下のNHK日曜美術館という番組で「シリーズ仏の美 三井寺 天台密教の秘宝」新羅明神坐像が紹介され、テレビにてこの神像を見ることができました。

 


 この写真をみて、その神像の異様さに気がつかれたと思います。白粉でも塗ったような真っ白な顔、異様なたれ目、唐服を着用しあごひげを蓄えたその姿はまさに異神というべき存在でしょう。

 

 横からみた姿から日本人離れした鼻の高さ、異様に細い指であることもわかると思います。同寺に所蔵されている新羅明神像画(鎌倉時代・重文)から、右手には金剛杵、左手には錫杖を持っていたと考えられるのですが、いまはその持ち物はなくなっています。

 

そこから本堂(本殿?)の正面に回ろうとしたのですが、なぜか牛乳配達のポストがありました。まさか人が住んでいるのでしょうか?

 

その横から本殿に出れました。

 

正面から見た新羅善神堂です。

 

中にある国宝の本殿です。明らかに流造の本殿で伏見稲荷や賀茂神社と同じ造り方ですよね。明らかにここが神社であることがうかがわれます。

 


 



右と左には小さな祠がありました。
三井寺所蔵の絵画から、笏を持つ般若菩薩と箱を捧げる宿王菩薩を配しているのでその祠かもしれません。
 

入口の石鳥居、、、、
ここまで来て気が付きました。そうです、おいらは裏手から入ってしまったのです。実際の新羅善神堂の境内の入り口はまさに弘文天皇陵の目の前にあったのです。


 
 「新羅の神々と古代日本」の著者、出羽弘明氏によると、三井寺の新羅神社の祭神は素戔嗚命で、この素戔嗚命は『記紀』によると新羅の国の曽尸茂梨の説話から朝鮮半島、特に新羅国よりもたらされたとしています。この新羅国とは「三韓の時代に辰韓十二か国の一つで慶州平野にあった斯盧国(しろさろこく)が紀元1世紀後半に隣接する諸小国家をあわせ連盟国家を形成した」(金両基監修『韓国の歴史』ほか)と定義されており、「新羅神社」とは渡来してきた新羅の人々が祖先を祀った祠であり、その存在によりそこが新羅から渡来してきた人々の居住地や痕跡を示しているとしています。
 しかし、実際にこの三井寺にある「新羅善神堂」はそのようなものなのでしょうか?このように寺院の境内の中にある明らかに神社と思われるお堂、そしてその中に安置されていた日本人離れした顔立ちを持った新羅明神、この新羅明神とはいったいなんなのでしょう?おいらはまずそこに祀られていた新羅明神について考えてみました。
 それには当時の仏教の情勢というものが欠かせないと思います。当時仏教を学ぶためにははるか中国の唐へと海を渡らなくてはならず、その渡航を手助けしていたのが朝鮮半島の新羅の勢力であったと言います。(越境の古代史、田中史生著)しかも史実的には最後の遣唐使が838年で円珍の入唐が858年であることから彼は新羅の密貿易船で入唐、帰国した可能性が高いのです。そこから考えると円珍の学んでいた中国山東省の新羅坊は当時新羅人の一大居住地であり、そこに祀られていた新羅人の神様を日本に持ち込んだというのが通説となっています。しかしどうも腑に落ちないことがあります。それは新羅明神が後戸の神であるということです。

後戸の神と新羅明神

 後戸の神や宿神の話は川村湊氏や中沢新一や山本ひろ子、服部幸雄らが書いています。詳しくはおいらのブログ(謎の渡来人 秦氏を追う 第5回 広隆寺と摩多羅神)では「後戸」とは、仏壇の後方にある戸のことで、背後でその神力を発揮すると言う意味では根本的な存在と規定しました。この後戸の神は唐に渡った空海・円仁・円珍らによってもたらされた神で、空海が東寺を賜ったときに中堂に「夜叉神」を安置したが、後に、この像は摩多羅神であると空海が高弟の実慧に語ったと伝わっています。また、円仁が唐より帰朝するとき、念仏を誦していて句を忘れしまった。すると波の音が句を唱えたので見ると金色の阿弥陀像があったという。これが摩多羅神の出現を暗示しているといわれています。異神はそのような出現をするものであるし、秘仏たる摩多羅神の名を出せなかったからだそうです。そう考えるとまさに天台宗や真言宗などの平安期に成立した宗派のまさに秘術というべき後戸の神、摩多羅神。摩多羅神が確かに存在したのが天台宗系の寺にある常行三昧堂の中だったのです。常行三昧というのは、阿弥陀の名号を唱えながら仏を念じ、本尊阿弥陀像の周りを巡る修行法です。ひと夏にわたって実修され、その間、飲食用便の他は座ることが許されない。仮眠も柱に渡した横木にもたれて立ったまま就るという厳しい行だそうです。比叡山の常行堂は、865年に慈覚大師(円仁)により東塔の傍に建てられました。続いて9世紀末に西塔、954年に九条師輔により横川にそれぞれ建立されました。この常行堂の護法神として摩多羅神は祀られたのだそうです。同様に円珍も園城寺を建てる際にこの常行堂と摩多羅神を配したと思われます。これこそ新羅善神堂と新羅明神だったのです。
 また、東大寺の二月堂本尊の背面、すなわち後戸にも秘仏の聖観音があるのをご存知でしょうか?これも摩多羅神と同様に後戸の神を配しており、二月堂で行われる修二会と天台宗の常行三昧には後戸の神を祀るといった共通性があるのです。また以前この修二会も若狭とのつながりを説明させていただきましたよね。(若狭と古代史との関係 (2)彦と姫の関係性)そこで、秦氏の関与というのも説明させていただきました。そういえば摩多羅神を祀る牛祭りで有名な広隆寺も秦河勝によって建立されたと伝わっていますよね。そこに伝わる聖徳太子伝説、これはいったいどういうことなのでしょう?

後戸の大友皇子

  このように後戸の神はまさに秦氏と新羅の海賊の関与がもたらしたものだと考えられます。円仁は渡航の際、新羅の商人張保皐(チャン・ボゴ)の援助を受けたといわれています。また秦氏と海上運送業は切っても切れぬものがあると思っています。そう考えるとまさに後戸の神とは新羅の神でもあり、先ほどの曽尸茂梨の説話から素戔嗚命であるというのも全く間違いではないような気もします。ただ、素戔嗚命が新羅から来たという物的証拠は何も実はないのです。記紀だけの記述をうのみにして後戸の神=新羅明神=素戔嗚命という図式は少し慎重に考えなければならないと思います。ただ、日本には「白」を「shira」と読み聖なる地として、また被差別民の信仰地として存在していることも確かなのです。実はこの新羅善神堂は大津市の別所という場所に存在しているのです。別所という地名の由来は(別所考)国栖、佐伯、蝦夷などとよばれた天皇家にまつろわぬ異族が排斥、滅亡された過程から生まれた俘囚を移配した土地なのだと菊池山哉は説明しています。そう考えると確かにこの後戸の神たる新羅明神は、前田速夫氏の説明する白山神の本地仏=十一面観音の背面の暴大笑面を切り離して祀ったのではないかと主張するその言葉に共感するのです。つまり、仏教の最大の秘術が当時の為政者に対し、この仏を拝むことすなわちあなたたちが滅ぼしてきた様々なものと向き合って拝むことだったのかもしれませんよね。そう考えると、まさに新羅善神堂の横に明治時代に弘文天皇陵(大友皇子の墓)が作られたのも何かの思惑が感じ取れるのです。

 
まさに新羅善神堂の真横に弘文天皇陵は存在します。
 
明治になってから整備された弘文天皇陵、まさに明治政府がなにを犠牲にして、この天皇陵を後戸の神にしたのでしょうか?
 
拝む方向は南を示しています。

 このように、新羅善神堂にあった神様は、直接壬申の乱やその後の天武朝とは関係なく、むしろ秦氏の関与の色の強い後戸の神だったのです。そう考えると壬申の乱はいったいどのようなものだったのでしょう?
 『日本書紀』によると、大海人皇子は天智天皇と同父同母の弟ということになっていますよね。しかし、これは信じられない理由がいくつもあるのです。そもそも『日本書紀』は、天武天皇が自分の子供の舎人親王(とねりしんのう)たちに命じて編さんさせたものだから、自分に都合の悪いことをそのまま記すはずもありません。天武の出生年が書かれていないのも、そこに書けない何らかの事情があったに違いないのです。おいらは天智天皇と大海人皇子は鵜野讃良(うのささら)皇女を通して義理の兄弟であり、血縁はなかったのではないかと考えています。それに、天智は娘を4人、天武の妃にしていて、古代においては同族結婚が当たり前とはいえ、同じ父母から生まれた兄弟で、兄の娘を4人も弟に嫁がせるというのはあまりにも不自然だと思われるのです。
 そう考えると天智天皇が百済か九州王朝系の皇族出身で、大海人皇子が新羅の皇族関係者という説もまんざらという気になってきます。また皇極天皇と新羅人との間に生まれた子供だという説もありいろいろあります。天武の血筋に疑いの余地があるもう一つの要因として、天皇家の菩提寺である泉涌寺(せんにゅうじ)に、天武系9代の天皇だけが祀られていないという事実があります。南北朝の天皇が入っていて、天武系9代だけ外してあるのはどういうことなのでしょう?やはり桓武朝になった段階で新羅系の血統から百済系の血統に天皇家が移ったという証拠なのでしょうか?
 そこまで考えてから後戸の神の性格を考えてみると、当時の最大の仏教秘術で滅ぼしたはずの新羅の神様を祀っているというのはまさにシニカルな結果ではないでしょうか?いや、そのそばに大友皇子が本当に埋葬されていたのであれば、新羅の神様ではなく百済の神様だったのかもしれません。桓武朝最大のタブーを後戸にかくして、、、、、

 この話はまだまだ検証の余地が残っているので、さらにいろいろ探究していく予定です。まずは京都の表鬼門の赤山禅院にも行ってみたいし、平泉の毛越寺にも後戸の神ツアーに出かけてみたいなあ。