前回は消された異神たちシリーズ(戸隠・鬼無里の紅葉伝説を追う)で紹介させていただいた紅葉伝説。書いてからどうしても舞台だった戸隠、鬼無里に行ってみたくなり再度訪問してきました。ただ、今回も両親と子供たちという超コブ付きでの訪問のため、思ったよりも行きたいところに行けなかったのが残念なところです。
 
 紅葉伝説の概要は前回のブログを参照していただくとして、今回は鬼無里の遷都伝承を考えていきたいと思います。

大和より遷都の使者
 
我が国最古の歴史書の一つ「日本書紀」の天武天皇十三年(684年)の春に、飛鳥から都を遷す土地を探すために、使者を派遣したという記述があります。そこで派遣されたのが三野王(みののおおきみ)・小錦下采女臣筑羅(うねめのおみつくら)らであったと記述されています。そして彼らはその年の夏には信濃の国の図面を天武帝に献上したのです。そして、翌十四年十月にも、3人の使者が信濃に遣わされ、束間の湯(松本市浅間温泉か入山辺地区)に行宮を造らせました。
 長野県長野市の鬼無里地区には、この史実に結び付けて、三野王がこの地にやってきて、ここを都としようとした伝承が残っているのです。
 

 鬼無里には水無瀬の里という戸隠、荒倉、虫倉に囲まれた谷があり、水がきれいで風水的にも藤原京に匹敵するだけの谷であったそうです。ところがそこに住んでいた鬼どもが、自分の住処を都になどされてなるものかと、そこに一夜で山を築いてしまったそうです。その山を一夜山と呼び、今でも鬼無里の真ん中にそびえたっているそうです。確かにこの山を取り除いてみればまさに藤原京や平安京に匹敵するだけの土地となるのですが、あくまで伝承ということで、、、、

阿部比羅夫の鬼退治
 遷都計画を阻止された天武帝は、この鬼どもを討つために蝦夷征伐の名将、阿部比羅夫を信濃の国に遣わします。(さすがにこの辺は伝承だなー、阿部比羅夫と言えば白村江の戦いで敗北した将軍ですよね。彼が再び信濃に派遣されたという記述はどこにもないのですが、そこは伝承ということで、(笑))そして見事鬼どもは退治されると、この水無瀬の里は「鬼の居ない里」ということで鬼無里という地名になったそうです。

鎮守の社、白髭大明神
 水無瀬を都とするために「鬼門の守護神」として勧請されたのが白髭大明神だと伝えられています。そしてその白髭大明神を祀る白髭神社は現在は鬼無里の中区字祖山に鎮座しています。そういえば白髭神社と言えば近江の高島市にある白髭神社が有名でしょう。琵琶湖に浮かぶ鳥居は近江の厳島としても有名ですよね。この白髭神社を新羅系神社としているのは「新羅の神々と古代日本」の著者、出羽弘明氏です。そこでの面白い説が『七大寺巡礼私記』東大寺縁起に良弁上人(前回の若狭シリーズで登場した東大寺の開基)の前に現れた老翁が『我是当山の地主、比羅明神なり』といった記事が見えるそうです。この比羅はアルファベットでSHIRAからSをとったHIRAであると説明しています。また高島市には安曇川という安曇氏に関係する地名もありましたよね。つまりここ、鬼無里にいた人々も新羅系渡来人の一派であり、安曇氏の関与もある場所と考えられるのです。そういえば阿部比羅夫も阿曇比羅夫も比羅の文字が入っていますよね。つまり南から信州を新羅系の渡来人が支配していったのですが、その当時まだ山には『鬼』と呼ばれる人々が暮らしており、その山の民との戦いを指して、鬼無里の伝承は形作られたのかもしれませんよね。

白髭神社
御祭神:猿田彦命
所在地:長野県長野市鬼無里日影4957
由来:天武天皇が白鳳年間に鬼無里に遷都を計画され、その鬼門の守護神として創設されたといわれています。昭和34年国の重要文化財に指定され、国道406号祖山入口から裾花川をわたった祖山部落にあります。
 
村の鎮守さま、といった感じですよね。
 
登りの参道に実はトラップがありました。
 
と、鳥居にどでかいスズメバチの巣が!!

おそるおそる登ると広い境内に出ました。
 
 この拝殿の奥にコンクリートに囲まれた本殿があるそうです。
 

文化財が風雨にさらされないようにという感じなのですがなんだか趣には欠けますよね。
 

 
 拝殿でお参りした後
 
 なんだか渋い摂社にも上ってみました。
 
 そういえば長野県の南部、阿智村の「安布知(あふち)神社」は、明治時代迄「新羅明神社」で、祭神は現在も「新羅大明神(須佐之男命)」だそうです。古代の信濃は「壬申の乱」の際には大海人皇子を支援し、美濃の後方部隊として兵力供給を行ったといわれており、いわゆる新羅系渡来人と関係の深い土地であったとも言われています。その近く駒場地区の曽山に白髯神社(白髭神社)があり、近江からの勧請といわれています。これって不思議ですよね。長野の鬼無里にあった白髭神社も祖山という地名だし、阿智村の白髭神社も曾山という地名なんですよ。そういえば同著に書いてあったこの地名が新羅国の王都徐耶伐(そやぼる)のソからきている、という解釈が可能であるとすれば、まさに天武天皇は新都として新羅の王国を造ろうとしていた可能性も考えられますよね。つまり美濃、尾張、三河、信州とその当時新羅系渡来人が治めていた一大勢力があり、それにより壬申の乱で大海人皇子は大友皇子に勝利できたという図式になるのです。