若狭と古代史との関係 (2)彦と姫の関係性
 
 若狭の国の一之宮は実は二つ存在します。それは若狭彦神社と若狭姫神社です。社伝では二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったと言われています。この白石の里にある白石神社で、毎年三月二日に「お水送り」の行事があります。また神社の下流の鵜の瀬へ降りて、香水を流すのです。そしてこの香水、若狭の真南、五十キロ離れた奈良東大寺二月堂の若狭井に湧き出し、三月十三日の修二会に「お水取り」されるのです。それではなぜ若狭からわざわざ奈良に香水を流すのでしょう?前回は金属汚染の話をさせていただいて、奈良の水が使えたものではなかったという仮説を出させていただきました。今回はまた別の視点で考えていきたいと思います。

彦と姫の神話性
 日本では神の怒りに触れ、あるいは天変地異により発生した大洪水もしくは大津波により、島や世界が壊滅し、その災害から神の啓示により、もしくはたまたま兄と妹二人だけが生き残る。他に配偶者になる人がいないために近親相婚を避けようとしつつもついには兄弟が結婚して子孫を生み出すといった兄弟始祖伝説があります。これらの神話は特に奄美や沖縄をはじめとする南西諸島で多くみられ、この神話をもとに『古事記』や『日本書紀』のイザナギ・イザナミの神話が作られたとも考えられているのです。
 不思議なことにこの話はノアの方舟の神話とも重なる部分が多く、もしかしたら古の時代に本当に地球規模で大洪水が起こり、アジアでは兄弟始祖神話となり、ヨーロッパではノアの方舟の神話となったのなら非常に興味深い気がします。そうすると若狭の白石に祀られていた唐人の形をした2神は大元は中国南部から縄文時代に渡来してきた海人族だったのかもしれません。
 それは若狭町(旧三方町)にある若狭三方縄文博物館に展示されている鳥浜貝塚から出土した出土品からも中国南部とのつながりを感じざるを得ないのです。安田喜憲著「森の日本文化」によると
河姆渡遺跡から出土した遺物は鳥浜貝塚とよく似ていると感じた。勿論、ゾウやトラ・サイ・ワニ・水牛などの大型哺乳動物は鳥浜貝塚では発見されていない。しかし、その遺物のセットはよく似ていた。それは稲作と狩猟・漁猟・採集をセットにした文化である。鳥浜貝塚で発見されていないのはイネだけである。河姆渡遺跡では、既に7.000年前頃から稲作が実施されていた。鳥浜貝塚ではイネは発見されていないが、エゴマ・リョウトク・ヒョウタン・ゴボウ・アブラナなどの栽培植物の遺体は検出されており、原初的な農耕が行われていたことは確実である。イネを除いた出土遺物の構成は、鳥浜貝塚とよく似ており、両遺跡ともほぼ同時代に営まれていた。
 こうした河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の類似は、既に6.000年前には、中国の江南地方から日本列島の西部にかけて、照葉樹林文化呼んでもよい文化圏が形成され始めていたことを示している。」
 と説明しています。
 
若狭三方縄文博物館は写真撮影禁止でした。よって外の掲示板にあった鳥浜貝塚から出土した漆塗りの櫛の写真です。

 つまり、中国南部で7000年前から発展した河姆渡文化はそのまま対馬海流に乗り、1000年で日本列島の日本海側に波及したと思われます。ただ、その土地は稲作よりも漁業に向いていた土地だったので、稲作自体はその時代には伝播しなかったのですが、もしかしたら彼らの間に神話として語り継がれていた兄弟始祖神話が遠敷川にもたらされ現在の若狭彦神社と若狭姫神社の基となった可能性はあると思っています。
  
 若狭三方縄文博物館に展示されていた縄文時代の住居


その後に入ってきた新羅の神々
 その後、新羅国(三韓の時代に辰韓十二か国の一つで慶州平野にあった斯盧国(しろさろこく)が紀元前1世紀後半に隣接する小国家を合わせて連合体的国家を形成した)から渡来人が来訪し、彼らの祖神をまつる神社として北は岩手県から南は熊本県まで広く新羅神社(あえてこれはしんらじんじゃとよばさせてください)として存在しているのです。その一つが下根来白石の白石神社(新羅神社)です。
 若狭彦、若狭姫の二神を白石大明神として祭祀したのが白石にある白石明神です。つまり若狭神社、神宮寺、白石明神などは元は皆同じものであり、縄文、弥生、古墳時代と長き時代の聖地に住む神として崇められていたものと考えています。またこの白石神社からさらに奥に上ると上根来で、広峰神社があり牛頭天王を祀っています。

秦氏と若狭の関連性
 遠敷郡の遠敷にある白石明神は新羅明神であり、男女神であった。この遠敷郡の旧上中町地区には縄文、弥生、古墳時代の遺跡が多く発見されています。特に4・5世紀の古墳である前方後円墳が多く、これらの古墳には金メッキ等を施された馬具などの朝鮮半島由来の副葬品や北部九州と同じ横穴式石室を持つ古墳など、半島と緊密な交流や往来をうかがわせています。この地は小浜街道の街でもあり、滋賀県の琵琶湖や余呉湖に近く、滋賀県の高島郡には海人族が居住していたと思われる安曇川町(あどがわちょう・現在の高島市)にほど近い場所となっています。当然ここの地は海人族である安曇との関係性も深いとは思っていますが、木簡等のからは秦氏の影響下であったとも考えられるのです。秦氏は以前においらも何本かブログに連載しましたが(謎の渡来人 秦氏を追う 第1回 秦氏の起源(1))ここ、若狭の地も重要な拠点の一つであったと言われています。さらに前に書かせていただいた東大寺開山の良弁上人の出生は若狭神宮寺の資料によれば秦氏の出で、秦常満という長者の一子であり、まさに秦一族が大仏建立に関係していたということになるのではありませんか!また、もう一つ重要なことがあったのです。いままで出てきた遠敷川の読みをもう一度確認してみましょう。「おにゅうがわ」、、、そうなんです。「小丹生川」とも読めますよね。平成3年には、郷土研究家と専門家によって遠敷の山中で古い洞窟が発見され「辰砂(朱)」が採取されたうえ、水銀含有が証明されました。このことによって「丹生は水銀の産地」であり、なおかつ「遠敷は本来、小丹生」であったことが実証されたのです。

お水送りとお水取り
 以上から東大寺建立にあたり、秦氏の関与がめざましかったことは諸文献等からも記されており、また若狭の辰砂(水銀)も少なからず使われた可能性は大きいと思います。そう考えると奈良の東大寺自体が秦氏の神をまつる一大拠点であった可能性も高いような気がしますよね。神仏習合であまり神の存在は見えにくいのですが、東大寺八幡殿には僧形八幡神坐像があったり(もっとも鎌倉時代作ですが、、)。
 そう考えるとお水送りとお水取りって秦氏の秘術であったとも考えられませんか?なんだかそう考えると仏教と神道って秦氏が日本で作り上げてきた一大産業とも思えてしまうのは秦氏自体が商売上手というイメージがあるからかなあ、、、、

というわけで今回は若狭彦神社、若狭姫神社をご紹介します。

若狭彦神社(上社)
 

御祭神:若狭彦大神(彦火火出見尊)
所在地:福井県小浜市龍前28-7
由来
 社伝では、上社の若狭彦大神と若狭姫大神の二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったといわれています。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建されました。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座したそうです。白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社があります。下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建されました。

 現在では、ほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐しています。
 
参道を進んでいくと

 
面白いことにここ、若狭彦神社の二の鳥居は自然の杉の大木でできています。
 
これと
 
これです。

 
 楼門の入り口となっており
 
 左右に随身(ずいじん)が配置されています。
 
 左右4柱づつ8柱が安置されており、鎌倉時代の作だそうです。
この随身、全国唯一の独特の様式で、若狭彦、若狭姫がこの地に御遷座になったとき、お供をした眷属(郎党)の方々だそうです。
 
 境内と本殿です。
 
 本殿は福井県有形文化財に指定されています。
 
 その横にある自然の手水で飲んでもおいしかったです。
 
 本殿で参拝をすませ
 
 摂社の若宮神社にもお参りしました。
祭神は鵜葺草葺不合命(神武天皇のお父さん)で、相殿に大山祇神、蟻通神です。

若狭姫神社(下社)
 
御祭神:若狭姫大神(豊玉姫命)
所在地:福井県小浜市遠敷65-41
由来
 霊亀元年(715年)に上社が鎮座し、その後養老5年(721年)に現在の地に下座が鎮座しました。その後室町時代ごろから主だった祭祀は下社に移りました。中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有したそうです。
 

 これが果たして由緒記に書かれているように永久鎮座の場所を探して巡歴した末のことなのか、はたまた天武朝以降の神社再編成によりもともとあった神を、記紀に基づく神に書き換えたのかは謎が残っています。おいら的には新羅の神だった男女神を記紀に都合がいいように置換したのであれば、非常に興味深いのですが、あまりそれらしい証拠もなく妄想する範囲にとどまってしまいます。
 
御朱印は上社と下社一緒にここでいただけます。
 
境内には船の模型が飾られていました。安曇族の穂高神社を思い出し、海人族の守り神だったことをうかがわせます。
 
今回は白石神社までは足を延ばさなかったのでこちらでお参りしておきました。
 
上社同様立派な楼門があり、
 
左右には随身(吉祥八人)が鎮座しています。
 

 
こんなところで民俗学の父、柳田國男先生の歌がありました。
「玉造る(若狭メノウのこと) 若狭の国の 国の中に
  神代の神を をかむけふ哉 」
「とこしえに 竝ひています わかさひこ
  わかさ姫こそ うらやましけれ」
柳田先生もただならぬ場所だということでお詠みになったのでしょうね。

 
 本殿です。横に立派な杉の大木がありました。
 
これこそ御神木!という感じですよね。

 
子種石という陰陽石です。こういうのがあるとなんだか縄文からの聖地であった可能性も出てきますよね。
 
 霊水のでる桂の井です。子供に頭よくなるから飲んどけよーと言って飲ませましたが、効果ははてさて、、、
 
 摂社の日枝神社です。大山咋神が祀られています。さすが秦氏の根拠地の一つですね。ちなみに大山咋神は京都の松尾神社の祭神の一つです。
 
 中宮神社で豊玉姫命のお姉さんの玉依姫命をお祀りしています。
 
 摂社の玉守神社です。

最後に若狭彦大明神の御神託という和歌を紹介します。
「みな人の 直き心ぞ そのままに
 神の神にて 神の神なり」
この和歌は、宇多帝の御子敦実親王に、夢中に告げ給ひちとなり、
四神の御歌と云ふ、是なり。
 後鳥羽院勅撰「和論語」より

四神とは四神相応の四神を指しているのでしょうか?それとも若狭の男女神は記紀の男女神とは違うのですよと言っているのでしょうか、、、、謎です。