草薙の剣盗難事件
みなさんはスサノオの剣、天叢雲剣は古くから大和にあって、倭姫命によって、伊勢にもたらされたと記紀では記されています。でも実際はどうなんでしょう?もともと出雲にあった剣がいつの間にイリ王朝(三輪王朝)のものになったのでしょう?おいらは実は天叢雲剣は尾張(または三河)にあったと考えているのです。もともとスサノオは朝鮮半島で信仰されていた神なのですが、日本海側の出雲、丹後、越前まで広がっていた渡来人連合国家、出雲によってもたらされた神だと思っています。そして日本海側から一部が大和盆地に入りイリ王朝(三輪王朝)を、そして同時期に尾張平野に入り志段味に尾張氏を中心としたクニを作り上げていったと思います。このときに対馬の島を通りもたらされた神と剣がスサノオ神であり、天叢雲剣だったと思われるのです。そしてスサノオ神が津島市の津島神社(津島天王社)に、そして剣が愛知県名古屋市昭和区村雲町にいた尾張氏のもとに祀られていたと考えています。今ではこの村雲には御器所八幡宮という神社があるのですが、この八幡宮、ものすごく不思議なんですよー。この八幡宮には、明らかに出雲系の神事である湯立て神事、茅の輪くぐりがあるんです。そういえばこの村雲町の傍には御器所(ごきそ)という地名がありますよね。これは神事に使う土器を作っていた土師氏が住み着いていたことが、地名の由来だといわれています。そして記紀によると668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件が起るのです。『日本書紀』天智天皇紀に668年(天智天皇7年)のこととして、「是歳。沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。而中路風雨。荒迷而帰」(この年、僧道行が草薙剣を盗んだ。新羅に向かって逃げたが、その路の途中で風雨が荒れ、迷って帰ってきた。)と記載されています。
これって本当に新羅の僧に盗まれたのでしょうか?いや、むしろ大化の改新(乙巳(いっし)の変)で、親百済の朝廷となり、白村江の戦いで負けた百済・倭連合軍から見れば、むしろ新羅に貢ぎ物として差し出そうとしたと考えるのが普通かもしれないのです。ではどういうことだったのでしょう?
大和挟撃計画
新羅としては唐と手を組み宿敵百済を滅亡させた。其処まではうまく行ったのですが、日本の近畿に親百済派の拠点がまだ残っていたのです。これを新羅と挟み撃ちにしたいと考えた尾張のクニが、新羅に剣の貢ぎ物を行って、新羅の入寇を促したとも考えられるのです。しかし、その計画は天智天皇の知るところとなり、剣が没収されたと考えると筋がとおりません?だって尾張はスサノオを信仰する親新羅のクニだったのですから。この計画を知った天智天皇はあわてて新羅に遣新羅使を送っています。また、特に唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)が647年に、金多遂とともに日本を訪れ、9ヶ月滞在して帰国しています。当代の一級の政治家が日本を訪れたということは、日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」と書いてあるが、金春秋が何らかの意図を持って、日本に来たことは明らかだと思います。
王朝交代を迫った金春秋
すっかりヤマトタケルから大海人皇子の秘密になってしまいましたが、佐々克明氏はこの金多遂こそ大海人皇子ではないかと著書で書いています。おいらもこの説はかなり面白い視点であるとともに、新羅がその当時旧百済王族を中心とした天智近江王朝に対し王朝交代を迫ったのではないかと考えたのです。このような近畿圏の動きを受け、その当時独立勢力であった尾張は、新羅と強いつながりがあったことから早くから近江朝と一線を隔していたのではないかと考えます。そこでおこった草薙剣盗難事件、この事件自体本当に剣を盗んだのではなく、むしろ尾張にあったスサノオの剣を新羅に献上しようとしたのではないかと考えました。
新羅包囲網にあわてる天智帝
647年の金春秋の来日は、記紀で記されたような人質ではなく、当時の皇極天皇に対し王朝交代を迫った外交使節であったことは前に述べました。その後の監視役の金多遂に対し後の天智帝は最大限のもてなしをします。それは自分の子供達である4人の娘を人質として金多遂(後の大海人皇子)に与えたのです。そういえば尾張氏の発祥の地は諸説ありますが奈良盆地西南部の葛城に高尾張という地名があります。こここそおいらは尾張氏が住み着いていた場所であり、ここから丹波、尾張へと広がっていったと思っています。つまり、天智帝時代でもここの地が新羅と密接に関係し、金多遂もここを拠点としていたと思います。そしてこの地で繋がったのが安曇族の氏族であった凡海麁鎌であり、まさに壬申の乱の土台がここに築かれたものではないかと考えました。
記紀で差し替えられたヤマトタケル
このように、あたかも初めは大和にあったことにしなければならなかった草薙の剣、この伝承を捏造するために、記紀では倭姫とヤマトタケルという英雄を作り上げ、あたかも討伐のために東の国に剣を持ち出したとしていたのですが、それには事情があったのでしょうね。なんせ三種の神器としての記述は古事記では見られず、日本書紀にかろうじて剣と鏡が天皇の璽符(みしるし)として記述があるだけなのです。文献的に三種の神器として著されているのは、690年持統天皇の即位の際「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とあります。後に中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わったと言われています。つまり、剣と鏡は確かに昔から天皇の持ち物としてあったのかもしれないのですが、勾玉は後付だった可能性があるのです。
様々な英雄の合体、ヤマトタケル
おそらくおいら的にはヤマトタケル自体が様々な英雄譚の合作ではないか、と考えたのですが、美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)と結婚してからはやけにリアリティーある姿になっているんですね。その辺の話はまた後日しようと思っているのですが、その頃から熱田には大和とは独立したクニがあり、交流があったことは確実であったと思います。しかも、その神聖な場所は実はいまだ残っているのですよー
氷上姉子神社
御祭神:宮簀媛命
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町火上山1-3
由来:仲哀天皇4年(195年)、天火明命の子孫で尾張国造だった乎止与命(おとよのみこと)の館趾の地に創建されたと伝えられている。持統天皇4年(690年)に火上山の麓の現在地に遷座。旧社地には元宮社が鎮祭されたそうです。
かつてこの地は火高火上(ほだかひかみ)と称しており、「延喜式」には火上姉子(ほのかみあねこ)神社と記されています。ほだかというと何を思い出します?そう、安曇野にある穂高神社を思い出しますよね。おいらは彼ら海人系の尾張氏と安曇氏には密接な関係性があると思っています。
今でこそ三種の神器の一つ、草薙の剣(天叢雲剣)が祀られている熱田神宮の摂社となっていますが、一説によるとココに本来の草薙の剣があったともいわれています。
今でもこの地は大事に保存されていますが、残念なことに隣に名古屋高速があり、やや車の音がしますね。
その隣には宮簀媛とヤマトタケルの愛の巣があった元宮の後があります。
ココまで来ると本当に静かですよ。
ヤマトタケルと宮簀媛命の愛の巣がこんなところにあるなんて、、、
でも蚊に食われるので夏に行くもんじゃあないですね(失笑)