前回までのお話で、愛知県にあるヤマトタケル伝承のほとんどは大和盆地東南部の三輪山を中心とした王朝と密接な関係があると説明してきました。ここで少し話を戻して古墳時代前期の古墳が作られ始めた頃のお話をしたいと思います。

古墳時代前期の新事実 
 1989年3月、兵庫県たつの市権現山51号墳を調査していた岡山大名誉教授の近藤嘉郎氏は、はじめて弥生時代末期の特殊器台と三角縁神獣鏡の共存を確認されてそうです。これは最古型式の「前方後円墳」の一群は、中国製の三角縁神獣鏡を持つが、特に吉備系の古墳は特殊器台形埴輪・特殊壷型埴輪を持っているのです。つまり、大和の最古の古墳の一群である中山大塚古墳、箸中山古墳(箸墓古墳)、西殿塚古墳は吉備系の古墳ということになるのです。特に最古と思われる纏向石塚古墳からは吉備系の弥生の祭祀と思われる弧紋円盤が出土しています。
 また、名古屋市北部にある志段味古墳群の白鳥塚古墳と尾張戸神社古墳には白色珪石を墳頂部や墳丘部に大量に散布しており、これらが四国東部から近畿地方の前期古墳で確認される白色円礫との関連も指摘されています。この
白色円礫はおいらはまさに白鳥伝説が伝承されている証拠と考え、大王の魂を天に運ぶ陵墓として存在したのではないかとかんがえます。その後、土師氏の出現により葺き石は白鳥型埴輪に変化していくのですが、このこのことからも、ヤマトタケルの伝承自体が瀬戸内の吉備・讃岐を元とした氏族が大和盆地に入り三輪王朝を作り、さらにその一族が東に移り尾張氏になったと考えるのが妥当な気がしています。
 
白鳥伝説とその後の進展
 「日本武尊、白鳥と化りたまひて、陵より出で、倭国を指して飛びたまふ。・・・・即ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の処に陵を造る。白鳥、更に飛びて河内に至りて、旧市邑に留まる。亦其の処に陵を作る。・・・・然して遂に高く飛びて天に昇りぬ」(日本書紀、景行天皇四〇年条)
 これが有名な白鳥伝説です。説話によれば、白鳥は魂を天に運ぶと言われています。そして日本で出土した最も古い白鳥形埴輪は、四世紀末の大阪府津堂城山古墳から出土したものと言われています。その後近畿では大阪府誉田山古墳や野中宮山古墳、奈良市平塚1号墳など大王陵か大王陵を含む群内の古墳に継承されています。更に近年で若松良一氏の「人物・動物埴輪」で埼玉古墳群では代々の首長墓に白鳥の埴輪が立てられていた可能性が強いと説明しています。つまり埼玉古墳群の王たちは近畿大王家に伝わる白鳥思想を共有しており、稲荷山古墳の鉄剣銘文と関東でも特異な長方形周濠を持つ埼玉古墳群の性格の一端を示していると思われます。

 このように古墳時代になって普遍化する諸要素の多くが吉備地域に震源を有する事実は重要だと思います。ただしこの地域で形成された政治勢力が次第に成長し、やがては天下(日本列島の西半部)を掌握するにいたった、というような単純な競争・競合モデルで読み解ける展開過程ではないのです。なによりも鉄生産の技術的基盤は朝鮮半島の南東沿岸部および北部九州地域に求められ、吉備がすべての源だということはけっしてないことは言っておきたいのです。そして前方後円(方)墳の東海から関東地方への広がりを、東海や北陸地域からの集団入植と耕地開拓の進展の結果だと理解し、新天地の開拓に向けられたエネルギーや冨こそが、倭王権(大和王権)を支える力の源泉ととらえるとともに、白鳥伝説も彼らの伝播によりひろがっていったと考えるのです。

 さて、今回は先程登場した尾張地方最古の古墳群の志段味古墳群にある尾張戸神社古墳、中社古墳、南社古墳、白鳥塚古墳のご紹介とその山、東谷山山頂にある尾張戸神社をご紹介します。

 この古墳群は前々回紹介した東谷山フルーツパークに車を止めて簡単にハイキング気分で登り訪れることができるのです。
 
 東谷山フルーツパークの第1駐車場に車をとめて横断歩道を渡ると右手に東谷山の登山道あります。
 
  ここから登山道が始まります。上り始めるとすぐに階段様の道になります。
 
登山道はこのようになっています。一気に山頂に上るので同等急勾配なのを覚悟してくださいね。

 
  道はこんな感じです。くれぐれも油断してサンダル等で上らないでください。
 
 なんとなく磐座様の石が点在しています。
 
 と、言っているうちに相当の上りになります。
  
 
430mほど上ると南社古墳があります。
 
南社古墳(みなみやしろこふん)は直径約30mの円墳で、頂上にイザナギ・イザナミが祀られています。
 
 出土した円筒埴輪はこのあとでてくる中社古墳と同じ形式のもので4世紀中ごろに作られた古墳だそうです。
 
 そのあとキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!ものすごい階段!!
 
 上のおねいちゃんも必死に登っています。
 
 急坂を上ると中社古墳があります。
 
 この古墳は全長約63.5mの前方後円墳です。
 
 こんな感じの木々に覆われています。
 
 墳丘の頂上にも祠があります。
 
 此処には白山菊理媛命が祀られているそうです。
 
 発掘調査の結果、斜面に川原石が葺かれ、円筒埴輪が周囲をめぐっていたそうです。
 
 よく見ると角の取れた丸い石が転がっています。この石を見て萌えていたおいらを見た他の登山客が怪訝そうな顔をしたのはちょっと残念な思い出です、、、、、。
 
 さあ、山頂まであと80m、すぐですね。
 
 やったー山頂だー、
山頂では名古屋の町並みが一望できます。
 
 当日は少しかすんでいましたがいい天気でした。


尾張戸神社
 

御祭神:天火明命・天香語山命・建稲種命
所在地:愛知県名古屋市守山区大字志段味字東谷2099
由来:「東谷大明神草創本基」によると成務天皇5年(135年)、宮簀媛命による勧請と伝わる古社で、尾張国造・尾張氏の祖神を祀ったものだそうです。東谷山西麓には多数の古墳が所在し、尾張戸神社も古墳の上に作られている。そのため、この地が尾張氏の本貫地であったと伝えています。
 
「延喜式」には山田郡尾張戸神社とあり、疫病除きの神様だったといわれています。
 
 神社の社殿の下には尾張戸神社古墳があります。古墳の形については諸説あったそうですが、発掘調査の結果、直径27.5mの円墳であることがわかったそうです。
 
  斜面に大振りな山石が葺かれ、一部に白石(石英)が混ざること、埴輪が見られないことが白鳥塚古墳と共通した尾張地方でもっとも古いタイプの古墳だと思われます。
 
実はこの東谷山山頂から南東の方向を見ると猿投山が見えます。
 
東谷山の尾張氏、猿投山の大碓尊と何らかの関連がありそうな立地ですね。

 
 古墳の裏にある小さな社です。これは1935年(昭和10年)の参道整備の際に見つかった中世の甕棺墓を現地に埋め戻して祀ったもので、甕室明神と呼ばれているそうです。
 
 帰りの参道は未舗装ですがそれなりに歩きやすい道でした。
 
 途中、これって磐座?と思われる石がごろごろしているんですよ。
萌えるなー(笑)

そこからおよそ800m西に行ったところに白鳥塚古墳があります。 
 全長は109mでその後の調査で、それよりも若干規模が大きいことが確認されたそうです。前方部2段、後円部3段築造と推定され、前方部端と北側、後円部の各1ヶ所以上に造り出しがあった可能性も指摘されています。
 
 手鏡型前方後円墳で、埴輪が見つかっていない事なども合わせて4世紀後半の築造と考えられています。
 
 ほとんど原生林のような感じだったので中までは上りませんでした。

と、ここまでで2時間ぐらいで回れます。つまりほんの気軽なハイキング気分で登れる山(標高198m)なのです。でも足元だけはしっかりしたもので登ってくださいね。