日本武尊は本当に関東まで行ったの?(3)


武器生産基地としての西三河
 前回までで、ヤマトタケル伝承は愛知のしかも局地的な伝承が多いことがお解かりいただけたと思います。特に西三河の岡崎市にはまだまだヤマトタケルの伝承の伝わっている場所も多く、そこを紹介しながら、伝承の残っていた本当の理由を徐々に考えていきたいと思っています。

矢作神社
 

御祭神:素戔鳴尊、豊受大神、保食神
所在地:岡崎市矢作町字宝珠庵1
 

由緒:創建は明らかではないそうですが、第十二代景行天皇の御代、日本武尊は東海の荒ぶる神、服従せぬ夷賊を平定するため旅立たれこの地(三河国蓬里・よもぎのさと)に着いたそうです。ここには海のように広い川が洋々と流れる所があり、民が言うには「この川の東にそびえる高石山に賊が群がり人々を悩ましています」といいました。尊はこれを討たんと戦いの神様「素戔鳴尊」をお祀りし、この地で数千本の矢を調達、無事にこの賊を討伐できたそうです。その話からこの土地は、矢作の里とよばれ川の名も矢作川とよばれるようになったそうです。
 
国道1号線で市内から矢作川に渡り右手奥100mほどはいったところにあります。日本武尊はここで素戔鳴尊をお祀りしたそうですが、おいらの直感では元々素戔鳴尊がお祀りしていたところに後付で日本武尊の伝承がついたのではないかとも考えました。
 
 立派な日本武尊の像がありました。この陶像は皇紀2600年(昭和十五年)を記念して昭和十八年八月に建立されたそうです。なんとなく戦前の面影を感じますね。
 
 地元の伝承では、ここ矢作の竹やぶは古くから「矢竹のやぶ」と呼ばれ良質な矢の材料となったそうです。1083年、源義家が陸奥守として奥州に向かう途中に、日本武尊の故事にならいこの矢作神社に参拝されたと伝えられています。
 
 1335年、新田義貞が足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸ったそうです。これを神の加護と信じて戦い、新田義貞が勝利を収めたといわれる。この時の石がうなり石と呼ばれ、矢竹とともに祀られています。


この神社、実は過去にふれた大友天神社からも近いのです。詳細は
「持統天皇三河行幸 その十三 三河に伝わる皇子伝承③大友皇子(弘文天皇)」をご覧ください。

菅生神社
 

御祭神:天照皇大神、豊受姫命、須佐之男命
所在地:岡崎市康生町630-1

 

由来:第十二代景行天皇の御代、日本武尊が東国平定のため、当地を御通過になり、高岩(今の菅生川畔の満性寺あたり)で、賊を討つために矢を作らせたとき、神風が吹いて、そのうちの一矢を小川に吹き流されたそうです。そこで尊は、その矢を「御霊代」と仰ぎ、伊勢の大神を祀り、この地に神社を建てられました。これを「吹矢大明神」と呼んでいたそうです。この吹矢大明神は岡崎市最古の神社といわれていて、その後聖武天皇神亀2年(724)にご神託により、京都伏見より稲荷大明神をお迎えし、同社に合祀したそうです。その後、明治になり「菅生神社」と名前を改め、現在に至っているそうです。
 
実はおいらは十数年前岡崎に勤務していてこの神社の前を通勤していたんですよ。その頃は全然見向きもしなかったなー
 
そういえば東岡崎駅の東側に吹矢町という町名や吹矢橋という橋もあり、元々はココにあった神社だったのかも知れませんよね。
 
お稲荷さんもあることは、秦氏の流れなのでしょうか?それとも徳川の祖先である加茂氏の流れなのでしょうか?


甲山寺
 

宗派:天台宗
所在地:岡崎市六供町字甲越17

 

由来:岡崎城の鬼門を鎮護する寺。本堂(護摩堂)は1603年(慶長8)に徳川家康が再建し、綱吉が1702年(元禄15)に改築したものです。日本武尊が東夷の途中、矢作の里で夜を過ごした日の夢に、3人の老翁が現れ、「吾等はこれ三台星なり、、東夷を鎮し出立ちたまう御身を護りまつらん。凱旋の日、甲をもてわれ等を祭りたまえ」と言い、遠くへ飛んで東の山に下り、3つの大石となった。日本武尊は帰路に、夢の告のとおりに、甲を埋めて星の精を祀た。これゆえに甲山というようになったとされています
 
甲山寺の本堂です。
 
その裏手には甲山八幡宮があり、神仏習合の面影が残っています。


 さて、これまでのお話でいくつか気がつくことがありましたよね。一つは岡崎の矢作川河畔が矢を作る矢竹の産地であり、日本武尊は武器調達のためこの地で矢竹を採集した。もう一つは、賊を打ち倒したのですが賊は意外と近く、岡崎市東公園や市民病院のある丘あたりをおそらく高石山と呼び、東三河への交通を妨害していたものと思われます。つまり岡崎での日本武尊伝承は非常に地域性があり、東征といわれていたものが、はるか関東まで出かけたものではなく、単に三河地方、特に西三河から東三河を統一した、そのぐらい範囲の歴史として伝承されている可能性が高いのです。そしてそれは尾張や三河地方の古墳の年代比定にも見られるのです。

 まずは4世紀の庄内川を境とした尾張北部と尾張南部および西三河地方の古墳の違いについて考えると、尾張北部の古墳の埴輪は大和盆地北部由来の特徴を持っており、尾張南部および西三河地方は大和盆地東南部由来の特徴を持っているそうです。そこから志段味、熱田から岡崎の矢作地区にまたがる氏族は大和盆地東南部の三輪地区と関連性をもった氏族が居住していたと考えられるのです。一方尾張北部にはヤマトタケル神話の伝承がほとんど無いことからも、もともとこの神話の原点は4世紀に発生した大和盆地東南部の勢力が持ち込んだ伝承であった可能性は高いと思われるのです。

 
 そしてその伝承は三河地方のどこまで波及しているかというと、愛知県の現在の豊川市、国府地区にある白鳥という地名です。そこには4世紀から5世紀にかけて矢作地区にあった豪族が東へ進出し、その付近にクニを作った形跡があるのです。その辺は次回に説明させていただきますね。とにかく、西三河は古代の一大武器生産地であり、また尾張地方の重要な軍港であったことが伺われます。