日本武尊は本当に関東まで行ったの?(2) 
愛知は東国への前線基地

 前回書きかけの文章をうっかりアップしてしまい、早々コメがついたので消すに消せなくなったので前回の続きから始めますね。

 どこまで話しましたっけ?そうそう、4世紀の四道将軍で北陸に遠征したという大彦命とその息子で東海に遠征した武渟川別のお話でしたよね。そのお話の補足ですが、神武天皇の三男、綏靖天皇の別名は「建沼河耳 (タケヌナカワミミ) 命」といい、耳以外はまさに武渟川別と同じ名前となっているのです。これはミミ「美美、耳」とは古代の首長の意味だと思われるのですが、上記の「建沼河耳命」と「建沼河別命」は、あまりにも類似性が強いのですよ。同一人物だとすれば、建沼河別命は綏靖天皇で、大彦命は神武天皇だということになりませんかねー?さらに言うと、沼河姫のご主人は大国主、これって大国主=神武という構図にもなってしまうんですよ。(コメントでも同じ文章でしたが、こちらは続きということで、、、、)さらに沼河比売の子供といえば出雲の国譲り神話に出てくる諏訪の神様の建御名方神ですよね。そう考えると武渟川別は東海に遠征したのではなく、むしろ大和を追い出され、尾張、三河、遠江、山梨、埼玉へと東に移動していった出雲の人々のことを指しているとも考えられるのです。

 それを4世紀に作られた古墳と重ね合わせてみると、吉備、大和、尾張だけでなく、遠江(磐田)、甲斐、武蔵(群馬・埼玉)にもかなり大きな出雲のクニが存在していたことがわかります。ではなぜそれらの国を征伐するためのヤマトタケルの神話が登場したのでしょう?それはおそらく出雲のクニの国家存亡に関わることが起こり、それまでばらばらに存在していたクニをまとめ対抗する手段が必要になったからではないのでしょうか?それがおいらは6世紀の継体天皇の即位だと思っています。そしてその東への前線基地として重要だったのが尾張地方だったのです。

 5世紀半ばより朝鮮半島情勢を受けて、ヤマト王権は中国南朝に朝貢を行うようになりました。すると、本来配下であるはずの筑紫、吉備、葛城、紀伊などが勝手に半島に進出するようになり、王権の土台が揺らぎ始めたのではないかと考えています。その動乱の余波で半島より数々の渡来人が来日、居住するようになり彼らもまた独立した勢力となっていったのです。その動乱状態の畿内を掌握したのが東国より兵を率いた継体天皇だったのです。そう考えると継体天皇も出雲の末裔と考えた方がよく、これが現在のヤマトにて出雲を無視できなっている理由であると考えています。そして畿内を掌握した継体天皇が次に行ったのが、東国の掌握です。これこそ2番目のヤマトタケル伝承であるとおいらは考えています。その第1段階として動き始めたのが尾張に一定の権力を与え東国を支配させるといった戦略です。これこそ熱田に草薙の剣がある理由であり、壬申の乱のときに大海人皇子が勝利した遠因でもあると考えるのです。実際愛知にはその時代の痕跡とも思われる伝承や史跡が多いのです。以前述べた猿投神社の大碓命伝承もそうした皇族の一員を東国の入り口に派遣した例であり、中仙道方面は大碓命、東海道方面の入り口には岡崎に前線基地を設置し、東国ににらみをきかせたのです。それこそ岡崎の矢作伝説ではないかと考えています。それでは今回は岡崎のヤマトタケル伝承を紹介します。

和志取神社

御祭神:五十狹城入彦皇子
所在地:愛知県岡崎市西本郷町御立 4 
由緒:創祀は詳らかではないそうです。文政13年神祇伯より正一位、明治3年長谷部神社と改称、明治7年5月教部省より和志取神社に確定したそうです。ちなみに江戸時代は「瀬部明神」「本郷大明神」と称していたので本来は五十狹城入彦皇子とは関係がないのかもしれませんが、おいら的にはヤマトタケル伝承の一端の神社ということにしておきたいです。

祭神は五十狭城(いさき)入彦命または気入彦命で、両神は同一という説もあります。『先代旧辞本紀』では五十狭城入彦命は景行天皇の皇子の一人で三河長谷部氏の祖と言われています。


実はこの社殿もう一つなぞがあるのですが、この神社を訪れる前に参考にさせていただいた玄松子さんのホームページには拝殿の後ろにフェンスに囲まれたもう一つの祠があると書いてあったのですが、現在は撤去されていて宝物殿跡という石碑があるだけです。


なぜ、どのような経緯で撤去されたのかがわからないのですが、
何か知っている方がいらっしゃったらぜひ教えてください。

そこから西へおよそ500m行ったところに五十狭城入彦命の墓と言われている和志山古墳にも行ってきました。

和志山古墳
愛知県では珍しい宮内庁管轄の古墳です。宮内庁管轄の古墳は猿投神社の裏にある
大碓命の御陵と此処だけですね。古墳のすぐ隣に蓮華寺というお寺があり、おいらも間違えてそちらの方に行ってしまいました。実は裏に入り口があったのです。


さすがに宮内庁管轄、由緒書きも木でできていてお金がかかっていますよね。


一般的な天皇陵のように鳥居があります。
ただ、この和志山古墳を五十狭城入彦命と言い出したのは幕末ぐらいからだそうです。そもそも和志山古墳はもともとこの土地の人が和志塚とか王塚と呼んでいたそうですが、誰のものかは不明でした。しかし豊橋の羽田八幡宮で神職をしていた、国学者・羽田野敬雄(はだのたかお)が江戸時代の神職・度会延経(わたらいのぶつね)の書いた神名帳をもとに、古文書を読み、五十狭城入彦皇子の墓であると主張したそうなのです。その後1896年宮内庁管轄の陵墓参考地となり1941年の太平洋戦争直前に五十狭城入彦の墓と認定されました。そういう意味ではあまり根拠のあるものではないのと、認定されたのもごく最近なんで、皇族と関係があるのかどうかはかなり怪しい存在なのでしょうね。


和志山古墳の裏手にある蓮華寺です。おいら的にはこっちのお寺の方がいい感じで好きですね。

和志山古墳の墳丘は前方部を西南西に向け、全長60メートル、後円部径30メートル・高さ6メートル、前方部幅26メートル・高さ3.4メートルと推定される。出土遺物は土師質の円筒埴輸(宮内庁書陵部所蔵)だけで、断面三角形の高い凸帯をもち、丹彩が残るものも含まれているそうです。墳形と埴輪の特徴より築造時期は4世紀末から5世紀初頭と考えられる。岡崎市内では出現期の古墳であり、全形が残る唯一の前方後円墳です。

和志取という地名は鷲鳥とも通じ、そこからおそらくヤマトタケル系のお話とつなげ、地元の和志取神社に伝わる古文書によると、旅人を襲う大鷲賊という山賊を、 天皇の命を受けた五十狭城入彦皇子が、倒したため、 郷の名前が鷲取になったそうです。また、五十狭城入彦皇子は和志取の皇子とか、 鷲取卿と呼ばれていたそうです。