日本武尊は本当に関東まで行ったの?(1)
4世紀の日本列島
記紀によると日本武尊は、72年頃?113年頃の生涯と考えられていて2世紀代の出来事と考えられています。しかし日本武尊の伝承にでてくる尾張氏の巨大古墳は4世紀前半に出現し、もっとも大きい宮簀媛の墓といわれている断夫山古墳は6世紀前半の築造と考えられています。そう考えると記紀の記述が明らかにおかしくなることは実は皆さんもご存知のことであり、有名なのは八木倍年説でしょう。
これは、『魏略』には現在の半年を当時の日本が一年として数えていたという『倍年説』を基に歴史を再計算しその結果、神武天皇の即位は西暦181年であり、寿命は127歳の半分の63歳であったと主張しています。その根拠としては魏志倭人伝の卑弥呼が現れる前の倭国の乱れを神武東征ととらえているのです。まず、この時代には、朝鮮半島には楽浪郡や帯方郡といった中国側の出先機関が設けられていました。朝鮮半島でのいわば植民地統轄拠点なのですが、倭国に関する情報は郡庁で整理されて、首都・洛陽に送られていたみられています。倭国に神武東征のような大きな戦乱があれば、その情報がここを通じて、中国に伝えられていたのは当然だと思われます。また、 また『後漢書』によれば、西暦107年に倭国王「師升(すいしょう)」が生口(使用人)
160人を後漢の安帝に献じたとあります。これだけの人数を使節、衛兵とともに中国に送れるだけの船が作れたのであるから、その70年ほど後に、神武天皇が船団を組んで瀬戸内海を渡ったというのは、技術的にも経済的にも十分、可能な事であった、と考えられます。おいら的にも神武天皇の即位は西暦181年で異論は無いのですが、ただこの頃は単なる奈良盆地の一角の豪族の長、といったところであったとも思っています。
さて、そこから考えると日本武尊の父、景行天皇はいったいいつの年代の天皇であったのでしょうか?
一応断っておきますけど、確かに歴代の天皇はいなかったという説もあるのですが、ココを否定すると話が何も進まないのと、魏志倭人伝、宋書倭人伝など各倭人伝関連の中国の文献に登場する卑弥呼や倭の五王、あと石上神社の七支刀や稲荷山古墳の鉄剣銘文等の研究者に申し訳ないのであえてこの天皇名は実在したとしておきましょうね。そこで安本美典著『邪馬台国と卑弥呼の謎』から、古代の天皇の平均在位年数を、約10年として、各天皇の大略の活躍年代を定め、『古事記』に記されている享年の長さに比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加え、『古事記』『日本書紀』に記されている記事の量に比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加えます。 そうしてはじき出した年代が下の表のようになるのです。そこからはじき出した景行天皇の在位年代は370年~385年となるのです。これなら尾張氏の出現した4世紀とも一致しますよね。ここで興味深いのは景行天皇のおじいさんにあたる祟神天皇陵といわれてる古墳です。さきほどの安本先生の「天皇の一代平均在位年数約十年説」によれば、祟神天皇は西暦350年前後に活躍した天皇であると考えられています。
天皇の一代平均在位年数約十年説による各天皇の年代比定
そしてこの祟神天皇の古墳は東京大学・斉藤忠先生は「今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ4世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することをかんがえてよい」とおっしゃっていますし、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も 「4世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの」としています。その根拠として古墳の形態による年代比定の方法があり、これは前方後円墳の「前方部幅/墳丘全長」を縦軸に、「前方部幅/後円部直径」を横軸にとってグラフを描くと、古墳形式の変化が明瞭になる。古い古墳は左下にプロットされ新しい古墳は右上に位置する傾向があるというものです。ここから著名な古墳をプロットすると崇神天皇陵と景行天皇陵の位置を見れば、崇神天皇陵は景行天皇陵よりも古い型式の古墳である事がわかります。
尚、この図でみると、箸墓古墳は崇神天皇陵よりも新しい4世紀後半グループの古墳となり、箸墓卑弥呼説は完全に覆されることになるのですがそれはまた後日に(笑)。
実は崇神天皇陵と相似形(手鏡型前方後円墳)は全国にあと2箇所あるのです。それは岡山にある大吉備津彦の墓と伝えられる吉備の中山茶臼山古墳と名古屋にある
白鳥塚古墳です。中山茶臼山古墳は宮内庁の管轄となっているので発掘等はされていないのですが、白鳥塚古墳は名古屋大学の発掘チームが何度か発掘調査を行っていて、埴輪がなく後円部の頂上部の葺石には白色珪石が使用されていたことから、その姿はまさに白鳥をイメージできる古墳であったことがわかっています。そうするとおそらく行燈山古墳(祟神天皇陵)に埋葬された大和の支配者はそのころ岡山と名古屋までその勢力を伸ばしており、まさにそれは四道将軍の伝承と重なりあっていることがわかります。また、崇神天皇の興した三輪王朝は三輪山は出雲神大物主神が祀り、神聖な山としてあがめていました。このことから当時の天皇家は、この出雲神の祀られる三輪山を大切に守っており、この時代の王朝はアマテラスの王朝ではなくむしろ出雲の王朝だったことが読み取れると思われます。
そう考えると記紀に記されている四道将軍の話はあながち伝承ではなく、吉備、尾張までヤマト王権の力が4世紀後半には相当広範囲に広がっていたことが裏付けられると思っています。しかし四道将軍、一つおいらには納得ができない点があるのです。
四道将軍といえば、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指しています。大彦命は北陸道、武渟川別命は東海道、吉備津彦命は中国道、丹波道主命は丹波道にそれぞれ派遣され、ヤマト王権の勢力範囲を拡大させたといわれています。しかし、そんなにそのころの王権自体に遠征するだけの力が本当にあったのでしょうか?いや、むしろ彼ら四道将軍はそれぞれ独立したクニであり、それぞれがヤマト王権と連合して一つの連合国家を作っていたと考える方がむしろ自然と考えるのです。しかもこの四道将軍はいくつかの謎が含まれているのです。
謎1、なんで丹波道主命のみ丹波という近距離に派遣されて他の将軍は遠路まで遠征したの?
おそらく当時軍事的な集団は今で言う海兵隊みたいな存在だったと思われます。当時にしては驚くほど大きな船を駆使し、弥生時代末期の青銅器中心の集落の下に鉄器を持ち込み支配していった、そうした姿が今の日本の宝船伝説となってのこっているのかもしれません。つまり、陸軍的な軍事行動は難しく、丹波道主命は慣れない行軍で相当苦労したことが伺われます。もう一つ考えられるのは出雲との関係です。祟神天皇60年には武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅しています。つまりこの頃は出雲もヤマトに相対する巨大な国家であり、その交通路である丹波を守ることは非常に重要な任務であったとも考えられます。
謎2、武渟川別は本当に東海地方を支配したの?
まず、おいらが謎に思っているのが武渟川別という名前です。彼は名前の中に「ヌナカワ」という音を含んでいることです。ヌナカワといえば思い出すのは古事記に登場する糸魚川の大国主の妻、沼河比売でしょう。その後の糸魚川の伝承では大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっています。仮に北陸を攻めた四道将軍大彦命が大国主となり、高志の国の姫の沼河比売との間にもうけた子供が武渟川別だったらなかなか面白い話になりませんか?でも北陸の王が何でわざわざ東海に派遣されたのでしょうか?そこには神武天皇以降の欠史八代の神話を差し込んでしまった代償が隠されているのかもしれないのです。実はもう一つ一つ武渟川別には名前の謎があり、欠史八代の第2代綏靖天皇の諡号は『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと), 『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)とされていて、武渟川別の名前に耳が付いただけの名前となっているです。しかも綏靖天皇はタギシミミの反逆というクーデターを未然に防いでいますが、四道将軍の大彦命も、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反に遭遇し、北陸路を引き返し武埴安彦命を討ち取っているのです。この話の大彦命が武渟川別であったらまさに話は同一人物となってしまうので記紀編纂時に大彦命と武渟川別を入れ替えたのではないかとも考えました。
小垣江神明社
御祭神:天照皇大神、誉田別命、迦具土命、豊受姫命、豊斟渟命、大縣命
所在地:刈谷市小垣江町下56
由緒:長保2年(1000)当地に創立。「又、一説に崇峻天皇の2年社殿を創立せりとも云う」。明治5年10月村社に確定、明治40年10月26日神饌幣帛供進神社に指定さる。御祭神中、誉田別命・豊斟渟命・大縣命は下中の無挌社「八幡社」、同「縣社」と称し、同字に鎮座の所、大正4年9月20日許可、同5年8月10日合祀済みなり。
伝承によると日本武尊が東国を征伐した帰り、熱田に向かっていた船が間違って三河湾に入り上陸したときに、この地のあたりが神の入り江であったことから「御垣江」の名前がついたといわれています。
拝殿です。
伊勢湾の熱田と三河湾を間違えるということが本当にあるのでしょうか?実はこちらも軍事港であり、ヤマト王権の重要な場所だったのかも知れないですよね。