持統上皇三河行幸 その十五 アマテルは月神?
海洋民と月
古代日本の太陽信仰は、これまで実に多くの識者によって議論されてきました。一方月信仰はほとんど議論されることはありません。森脇一夫著「万葉集の風土」『万葉集講座』で、万葉集の中に太陽を歌の題材にされたものはそれほど多くなく二十首ばかりにすぎないが、月は断然多く詠まれていて、百首を超えるといわれています。つまり、古代人、特に海洋民にとっては潮汐に関わる月は信仰の対象となったであろうことは容易に想像できると思います。
以前「持統上皇三河行幸 その八 伊勢から三河行幸の理由を考える④ 」で尾張氏の祖神、火明命(ホノアカリノミコト)を紹介させていただきましたが、三浦茂久著「月信仰と再生思想」では、火明を「ホノアカリ」と読むと説明し、この「ホノ」という言葉の解釈を、ほのか(仄)やあけぼのの言葉の語源からくる、わずかな明かりのことで、ここでは月明かりや霊光という意味になると解釈しています。また森浩一氏によると尾張氏は漁撈民というよりは、航海技術に長けた海上交通の担い手であると考えています。つまり、東海地方の古墳時代の海洋民は月信仰であり、出土する銅鏡は月明かりをさしているとも考えられるのです。そうすれば以前おいらが豊橋美術博物館で見たヒキガエルが真ん中に座っている銅鏡も説明に納得がいくのです。以前紹介させていただいた三遠南信文化交流展「黄金の世紀ー馬越長火塚古墳とその時代」にあった一枚の銅鏡が以前からおいらの心にいつまでも引っかかっていました。その銅鏡は4人の天女の中心に明らかにヒキガエルと思われる像が鎮座しているのです。このヒキガエルといえば中国の神話「嫦娥」を思い出します。古代中国には「嫦娥月に奔る」という神話があり、『淮南子』覧冥訓によれば、もとは嫦娥は仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇(ヒキガエル)になったと伝えられています。まさにその鏡こそ月の鏡であり、古代の王権の信仰のよりどころであったと思われます。
三角縁吾作銘二神二獣鏡 磐田市・松林山古墳出土
東京国立博物館蔵
4人の天女の真ん中にヒキガエルがいる鏡
このように、古代海人族(おいらはこれが倭国だと思っていますが、、、)は月信仰中心のクニとして3世紀から5世紀当時、伊勢湾や三河湾で栄えた、渡会氏、磯部氏、海部氏、安曇氏などの海洋氏族の力によって日本史の正史では、壬申の乱で大海人皇子は大友皇子(弘文天皇)に勝利するのです。
伊勢の月信仰
上田正昭著「神宮の原像」『伊勢の大神』で次のように述べられています。
なぜ伊勢が(神宮の)鎮座地として選定されたのであろうか。伊勢の地域が東国経営の要地であったことを重視する見方もあるが、そこには在地の海人集団らの太陽信仰が先行して存在し、かつ海上他界の東方の聖域としての信仰もあったのではないかと推考される。
ここから伊勢自体が伊勢湾、三河湾に住んでいた海人族の一大聖地であったのですが、この伊勢の太陽信仰自体は、上田氏以前にも丸山次郎、直木孝次郎、岡田精司などによって繰り返し主張され、いまや定説となっています。しかし果たして本当にそうなのでしょうか?伊勢神宮の内宮には別宮に「月読宮」があり、月読尊を祀っています。しかもそこには月読荒御魂宮があり、月読尊の荒御魂を祀っています。また伊勢神宮の外宮には「月夜見宮」があり、祭神は月夜見尊と月夜見荒御魂です。また伊勢市近郊にもツキヨミを祀る度会郡の川原神社や、多気郡の魚見神社があります。実はこれだけの月に関係する宮があるのも伊勢が天武朝以前は月信仰の地であった痕跡ではないかと考えるのです。またもう一人伊勢市には月神と思われる神様が鎮座しています。それこそサルタヒコ神ではないのでしょうか?「持統上皇三河行幸 その九 伊勢から三河行幸の理由を考える⑤ 」でも説明しましたが、サルタヒコが最初に神話で登場する姿は、邇邇芸尊(ニニギノミコト)が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいたそうで、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であったといわれています。皆さんはこの話から、何か気がつきませんか?赤く輝くものといえば夕日もそうなのですが、天文現象で月食も赤く輝く月となるのです。また先ほど銅鏡自体が月の鏡とも説明したのですが、サルタヒコの目も八咫鏡と、月の属性でたとえられていることから、後者の月食時の月と考えられませんかね?そういえば「ホオズキ」も「ホホる」という語源(丸いものという意味)から満月の意味となり、まさにサルタヒコは月属性の神様を記していたとも考えられるのです。
アマテラスの原像と月信仰
これまで海洋民族と月信仰の関連性について考察してきましたが、現在の太陽神アマテラス(天照皇太神)が創造される過程において、アマテラス自身が月神であったことが、世界の神話から伺われるのです。L・フロベニウスによると、「月中の機織女・糸紡ぎ女」という神話が西は中央ヨーロッパから、中近東、インド、東南アジア、中国南部を通って、東は太平洋諸島に広がり、中米、北米中部に連なる広範な分布域を持っています。
「月の機織女・糸紡ぎ女」神話分布図 L・フロベニウス原図
(『神話の話』大林太良著より引用)
例えば、ギリシャのアルテミスや古代ローマのダイアナは月神であり、機織神・狩猟神ですよね。またエジプトの女神ネイトは古い月の女神で、いつも頭に杼をつけていて織物を発明したといわれています。またポリネシアのヒナの神話もタパ(樹皮布)を作る女でした。これらのことはエリアーデの『豊穣と再生』においても、月の女神が優れた織物女
として無限に月のリズムで秩序をなし、目に見えない宇宙的な網目を作り上げているといわれています。このように世界中の広範囲にわたって存在するのです。
日本神話では皆さんもご存知のとおり、アマテラスは機織女であり、特に鶴岡静夫著『古代中世宗教史研究』では
「伊勢神宮の神は、より基本的に棚織姫を祀ったもので、太陽神の性格をダブらせてアマテラスの原像が作られた。だから、棚織姫の性格が第一義的なもので、太陽神としての性格は第二義的なものである。日神信仰は政治的統一のために都合がよいので、伊勢神宮を皇室の神社とし、太陽神的側面が強調されることになった。」
と説明しています。つまり、このことからアマテラスが現在の天照皇太神となる過程で「月の機織女・糸紡ぎ女」の海洋民神話の月神から日神になったものとも考えられるのです。
ここで問題点が2つあります。仮にもともとアマテラスが月神であったとすればいつごろから太陽神に変わったのか?もう一つは、太陽神を信仰していた民とはどのような民だったのか?
最初の問題として、アマテラスを日神とした時期は、おいらは白村江の戦いの敗戦後であり、おそらくは天武天皇が斎宮を設置した時期に一致するのではないかと思っています。また、なぜそのようなことをする必要があったかというと、おそらく次に来る唐の侵略に対抗するために旧天智朝(旧百済渡来人系政権)と現天武朝(海人系渡来人であり、旧倭国政権)との融合を図る必要があったのではないのでしょうか。
海洋民と月
古代日本の太陽信仰は、これまで実に多くの識者によって議論されてきました。一方月信仰はほとんど議論されることはありません。森脇一夫著「万葉集の風土」『万葉集講座』で、万葉集の中に太陽を歌の題材にされたものはそれほど多くなく二十首ばかりにすぎないが、月は断然多く詠まれていて、百首を超えるといわれています。つまり、古代人、特に海洋民にとっては潮汐に関わる月は信仰の対象となったであろうことは容易に想像できると思います。
以前「持統上皇三河行幸 その八 伊勢から三河行幸の理由を考える④ 」で尾張氏の祖神、火明命(ホノアカリノミコト)を紹介させていただきましたが、三浦茂久著「月信仰と再生思想」では、火明を「ホノアカリ」と読むと説明し、この「ホノ」という言葉の解釈を、ほのか(仄)やあけぼのの言葉の語源からくる、わずかな明かりのことで、ここでは月明かりや霊光という意味になると解釈しています。また森浩一氏によると尾張氏は漁撈民というよりは、航海技術に長けた海上交通の担い手であると考えています。つまり、東海地方の古墳時代の海洋民は月信仰であり、出土する銅鏡は月明かりをさしているとも考えられるのです。そうすれば以前おいらが豊橋美術博物館で見たヒキガエルが真ん中に座っている銅鏡も説明に納得がいくのです。以前紹介させていただいた三遠南信文化交流展「黄金の世紀ー馬越長火塚古墳とその時代」にあった一枚の銅鏡が以前からおいらの心にいつまでも引っかかっていました。その銅鏡は4人の天女の中心に明らかにヒキガエルと思われる像が鎮座しているのです。このヒキガエルといえば中国の神話「嫦娥」を思い出します。古代中国には「嫦娥月に奔る」という神話があり、『淮南子』覧冥訓によれば、もとは嫦娥は仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇(ヒキガエル)になったと伝えられています。まさにその鏡こそ月の鏡であり、古代の王権の信仰のよりどころであったと思われます。
三角縁吾作銘二神二獣鏡 磐田市・松林山古墳出土
東京国立博物館蔵
4人の天女の真ん中にヒキガエルがいる鏡
このように、古代海人族(おいらはこれが倭国だと思っていますが、、、)は月信仰中心のクニとして3世紀から5世紀当時、伊勢湾や三河湾で栄えた、渡会氏、磯部氏、海部氏、安曇氏などの海洋氏族の力によって日本史の正史では、壬申の乱で大海人皇子は大友皇子(弘文天皇)に勝利するのです。
伊勢の月信仰
上田正昭著「神宮の原像」『伊勢の大神』で次のように述べられています。
なぜ伊勢が(神宮の)鎮座地として選定されたのであろうか。伊勢の地域が東国経営の要地であったことを重視する見方もあるが、そこには在地の海人集団らの太陽信仰が先行して存在し、かつ海上他界の東方の聖域としての信仰もあったのではないかと推考される。
ここから伊勢自体が伊勢湾、三河湾に住んでいた海人族の一大聖地であったのですが、この伊勢の太陽信仰自体は、上田氏以前にも丸山次郎、直木孝次郎、岡田精司などによって繰り返し主張され、いまや定説となっています。しかし果たして本当にそうなのでしょうか?伊勢神宮の内宮には別宮に「月読宮」があり、月読尊を祀っています。しかもそこには月読荒御魂宮があり、月読尊の荒御魂を祀っています。また伊勢神宮の外宮には「月夜見宮」があり、祭神は月夜見尊と月夜見荒御魂です。また伊勢市近郊にもツキヨミを祀る度会郡の川原神社や、多気郡の魚見神社があります。実はこれだけの月に関係する宮があるのも伊勢が天武朝以前は月信仰の地であった痕跡ではないかと考えるのです。またもう一人伊勢市には月神と思われる神様が鎮座しています。それこそサルタヒコ神ではないのでしょうか?「持統上皇三河行幸 その九 伊勢から三河行幸の理由を考える⑤ 」でも説明しましたが、サルタヒコが最初に神話で登場する姿は、邇邇芸尊(ニニギノミコト)が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいたそうで、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であったといわれています。皆さんはこの話から、何か気がつきませんか?赤く輝くものといえば夕日もそうなのですが、天文現象で月食も赤く輝く月となるのです。また先ほど銅鏡自体が月の鏡とも説明したのですが、サルタヒコの目も八咫鏡と、月の属性でたとえられていることから、後者の月食時の月と考えられませんかね?そういえば「ホオズキ」も「ホホる」という語源(丸いものという意味)から満月の意味となり、まさにサルタヒコは月属性の神様を記していたとも考えられるのです。
アマテラスの原像と月信仰
これまで海洋民族と月信仰の関連性について考察してきましたが、現在の太陽神アマテラス(天照皇太神)が創造される過程において、アマテラス自身が月神であったことが、世界の神話から伺われるのです。L・フロベニウスによると、「月中の機織女・糸紡ぎ女」という神話が西は中央ヨーロッパから、中近東、インド、東南アジア、中国南部を通って、東は太平洋諸島に広がり、中米、北米中部に連なる広範な分布域を持っています。
「月の機織女・糸紡ぎ女」神話分布図 L・フロベニウス原図
(『神話の話』大林太良著より引用)
例えば、ギリシャのアルテミスや古代ローマのダイアナは月神であり、機織神・狩猟神ですよね。またエジプトの女神ネイトは古い月の女神で、いつも頭に杼をつけていて織物を発明したといわれています。またポリネシアのヒナの神話もタパ(樹皮布)を作る女でした。これらのことはエリアーデの『豊穣と再生』においても、月の女神が優れた織物女
として無限に月のリズムで秩序をなし、目に見えない宇宙的な網目を作り上げているといわれています。このように世界中の広範囲にわたって存在するのです。
日本神話では皆さんもご存知のとおり、アマテラスは機織女であり、特に鶴岡静夫著『古代中世宗教史研究』では
「伊勢神宮の神は、より基本的に棚織姫を祀ったもので、太陽神の性格をダブらせてアマテラスの原像が作られた。だから、棚織姫の性格が第一義的なもので、太陽神としての性格は第二義的なものである。日神信仰は政治的統一のために都合がよいので、伊勢神宮を皇室の神社とし、太陽神的側面が強調されることになった。」
と説明しています。つまり、このことからアマテラスが現在の天照皇太神となる過程で「月の機織女・糸紡ぎ女」の海洋民神話の月神から日神になったものとも考えられるのです。
ここで問題点が2つあります。仮にもともとアマテラスが月神であったとすればいつごろから太陽神に変わったのか?もう一つは、太陽神を信仰していた民とはどのような民だったのか?
最初の問題として、アマテラスを日神とした時期は、おいらは白村江の戦いの敗戦後であり、おそらくは天武天皇が斎宮を設置した時期に一致するのではないかと思っています。また、なぜそのようなことをする必要があったかというと、おそらく次に来る唐の侵略に対抗するために旧天智朝(旧百済渡来人系政権)と現天武朝(海人系渡来人であり、旧倭国政権)との融合を図る必要があったのではないのでしょうか。
大和と太陽神信仰
2世紀より起こった世界的な寒冷化により、朝鮮半島南岸から北部九州、瀬戸内海にあった連合国家「倭国」は、未曾有の戦乱の時代となりました。それは吉野ヶ里遺跡の甕棺で発見された矢じりの刺さったまま埋葬された人骨や首から上のない人骨が見つかったこと、また瀬戸内地方に見られる軍事施設と思われる高地性集落の存在により裏付けられる説もあるぐらいです。興味深いのはこの高地性集落は列島の沿岸部に存在し、海人系渡来人の勢力圏と一致するのです。しかし、海人系の渡来人は月神信仰でしたよね。では畿内の太陽神信仰はどこからきたのでしょう。大和では古くは三輪山を中心とした太陽信仰がありました。三輪山に昇る太陽信仰が春日信仰で、その夏至線に大和本来の開拓者(それを神武陵に比定した)、冬至線に鏡作神社を配置しし、三角縁神獣鏡が量産されたのです。
小川光三著「大和の原像」より
鳥越憲三郎著「神々と天皇の間」に、二人のハツクニシラススメラミコトの存在をそのまま認め、大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定されたのです。それは記紀が記す神武から開化にいたる9代の宮と陵は、大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中していることからも伺えるそうです。このことから、崇神天皇に始まる三輪王朝のそれが大和平野の東南部にあったのと著しい対象をなしているのです。そこで、神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝の始祖と据え、三輪王朝に先行して葛城王朝が実在したとされたと説明しています。これはすごく興味深い論だと思っているのですが、これこそ天孫系と出雲系の存在を暗示しているのではないかと考えました。そしてこの葛城王朝から近畿一円を治める氏族が出現するのです。それこそ蘇我氏だと考えるのです。蘇我氏言えば武内宿禰が租の氏族ですが、おいらは蘇我氏が新羅から日本海側に居住した渡来系氏族だと思っています。
(このあたりも説明すると長くなるのでさらっといかせてね)
朝鮮半島と太陽神信仰
そういえば韓流ドラマで有名な「朱蒙」は、紀元前1世紀ごろの高句麗を建国した英雄、朱蒙を主人公にした神話です。この話で東扶餘の地で、水神・河伯(ハベク)の娘「柳花(ユファ)」は天から降りた強い光によって身籠もり、不思議なことに大きな卵を産む。卵がかえり、男の子が産まれ、武芸に優れた凛々しい若者に成長する。この若者が後の高朱蒙(東明王)となります。また、新羅の国主の子、天之日矛が渡来した由来の神話でも、太陽の日を受け生まれた赤い玉から変化した美しい娘を追って天之日矛は日本に来たというのです。つまり、朝鮮半島では古くから日光感精神話により王族が生まれたという伝説が伝わっており、朝鮮半島自体は月神よりも太陽神を信仰する土地ではなかったかと考えています。先ほどのべた蘇我氏も発祥の地は多神社のそばで、新羅を発祥とする太陽信仰の氏族であったのではないかと考えます。
韓人の子、天智天皇
記紀で大化の改新(乙巳の変)での古人大兄皇子の言として蘇我入鹿を殺した様を、
「韓人が鞍作を殺した。私は心が痛む」
と記載されているのです。ここで古人大兄皇子と中大兄皇子は同じ欽明帝の子であるのですが、古人大兄皇子の母は蘇我系であるのに対し、中大兄皇子の母は皇極天皇(斉明天皇)でしたよね。おいらはここで皇極天皇こそ朝鮮半島の王室の姫であり、百済王室の末裔ではないかと考えているのです。そういえば斉明天皇が崩御された際に皇太子中大兄皇子は「麻の素服」を着て執政したと記述されていますが、喪中に麻の素服を着るのは現代の韓国でも行われる風習です。このことからも中大兄皇子はこれまであった親新羅の蘇我政権に変わって急速に大和朝廷の百済化を狙ったと思われます。しかし、その政権も長くは続きませんでした。その親百済の近江朝を倒したのが、海人系渡来人と旧蘇我氏の勢力をまとめた大海人皇子、つまり天武天皇なのでした。つまり天武天皇は太陽神信仰の勢力と月信仰の勢力の力を借りて近江朝をたおしたことになり、まさに太陽神と月神の融合が政権維持に重要な要因となったことは確実だと思っています。
太陽と月の融合、天照皇大神
こうして伊勢神宮で太陽と月の融合が図られ、女神太陽神の天照大神と弟神の月読神ができたと考えています。そうすると持統天皇が熊野や吉野、あと伊勢や三河まで行幸した理由がおぼろげに見えてきませんか?そうなんです、持統天皇は太陽と月が癒合した神の象徴として全国各地に行幸し、その存在を認めさせなくてはならなかったのでしょう。あたかも天武天皇が月で、持統天皇が太陽、その間にできた孫、文武天皇が神の子供として新しい国家「日本」を未来永劫統治できるように思いをこめて、、、、
そう考えると、持統の三河行幸の最大の鍵は、月神を日神にしていくという作業であったと考えられるのですが、実際行ってみると当時三河は旧出雲系の神ばかりだったのです。ここで持統上皇がとった政策が3種の神器の成立、つまり海神系月神アマテルと朝鮮半島から来た太陽神タカミムスヒ、あと新羅の神スサノヲがもたらした三輪山の神オオナムチの三神融合が三種の神器という形でもたらされたのではないかと思っています。そのことから、三河の山にあった出雲神オオナムチを里(現在の豊川市一宮町)の太陽のもとにさらしたのではないかと考えました。
意外と記紀編纂にてこずったのがこの時期なのではないの?
天武帝により倭と出雲と百済が融合し新しい「日本」という国家となり、日本にふさわしく、つじつまの合う神を日本全土に知らしめるために記紀編纂を命じたのですが、その後の持統天皇や文武帝の正統性主張や旧神の融合を図るため、相当てこずったと思っています。なんせ681年に天武帝が指示してから、古事記が712年(約30年)、日本書紀が720年(約40年)の歳月から、なみなみならぬものであったと思っています。このため多くの文章の書ける役人が全国に派遣され内情を朝廷に逐次報告させていたと思われます。そんな国家統一の大事業は持統にも受け継がれ、伊勢神宮という海人系のアマテラス神と山神系(朝鮮半島由来の高木神)タカミムスヒ神を融合させるという国家プロジェクトを成し遂げたのでした。最後の仕上げで東に存在していた旧出雲国家をなんとか伊勢神宮に合わせようとした志半ばで亡くなったとも考えられます。その後百済系の桓武天皇の即位により伊勢は急速にその力を失い、出雲系の国は「蝦夷」と呼ばれ武力により滅ぼされていく歴史なのですが、本来はすべての神を自分の神としてしまう「日本」という国家のアイデンティティーを作った天武と持統の業績は計り知れないものと思っています。
度会氏とホアカリと月信仰
これまで、内宮は天武、持統両天皇によって作られた、日神と月神の合体神社であり、そこはこれまであった3つの勢力を飲み込む形ですべての皇大神アマテラスが作られたのではないかと説明しました。
しかし、本来の当地にあった神はどこにあったのでしょう?
もともと度会氏の祖神は国之常立神(クニトコタチ)なのですが、おいらが注目するのは十代後に、アメノムラクモ(天牟良雲命、アマノムラクモノミコト)が挙げられている点にあります。「天牟良雲命」とは、「天叢雲命」あるいは「天村雲命」であります。これは、天村雲命」であれば、『海部氏本紀』に名を連ね、始祖ホアカリ(火明命、ほあかりのみこと)から数えて三代後ですよね。つまり、度会氏と尾張氏はここから同族であったとも考えられるのです。そうすると伊勢の元神も月神であった可能性は高いと思われますよね。そうしたちょっと斜めな見方で伊勢をみると、なんだか外宮が本来の元伊勢で、あとから内宮が作られた気がしてきませんか?
伊勢神宮外宮別宮 月夜見宮

御祭神:月夜見尊、月夜見尊荒魂
所在地:三重県伊勢市宮後1
2世紀より起こった世界的な寒冷化により、朝鮮半島南岸から北部九州、瀬戸内海にあった連合国家「倭国」は、未曾有の戦乱の時代となりました。それは吉野ヶ里遺跡の甕棺で発見された矢じりの刺さったまま埋葬された人骨や首から上のない人骨が見つかったこと、また瀬戸内地方に見られる軍事施設と思われる高地性集落の存在により裏付けられる説もあるぐらいです。興味深いのはこの高地性集落は列島の沿岸部に存在し、海人系渡来人の勢力圏と一致するのです。しかし、海人系の渡来人は月神信仰でしたよね。では畿内の太陽神信仰はどこからきたのでしょう。大和では古くは三輪山を中心とした太陽信仰がありました。三輪山に昇る太陽信仰が春日信仰で、その夏至線に大和本来の開拓者(それを神武陵に比定した)、冬至線に鏡作神社を配置しし、三角縁神獣鏡が量産されたのです。
小川光三著「大和の原像」より鳥越憲三郎著「神々と天皇の間」に、二人のハツクニシラススメラミコトの存在をそのまま認め、大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定されたのです。それは記紀が記す神武から開化にいたる9代の宮と陵は、大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中していることからも伺えるそうです。このことから、崇神天皇に始まる三輪王朝のそれが大和平野の東南部にあったのと著しい対象をなしているのです。そこで、神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝の始祖と据え、三輪王朝に先行して葛城王朝が実在したとされたと説明しています。これはすごく興味深い論だと思っているのですが、これこそ天孫系と出雲系の存在を暗示しているのではないかと考えました。そしてこの葛城王朝から近畿一円を治める氏族が出現するのです。それこそ蘇我氏だと考えるのです。蘇我氏言えば武内宿禰が租の氏族ですが、おいらは蘇我氏が新羅から日本海側に居住した渡来系氏族だと思っています。
(このあたりも説明すると長くなるのでさらっといかせてね)
朝鮮半島と太陽神信仰
そういえば韓流ドラマで有名な「朱蒙」は、紀元前1世紀ごろの高句麗を建国した英雄、朱蒙を主人公にした神話です。この話で東扶餘の地で、水神・河伯(ハベク)の娘「柳花(ユファ)」は天から降りた強い光によって身籠もり、不思議なことに大きな卵を産む。卵がかえり、男の子が産まれ、武芸に優れた凛々しい若者に成長する。この若者が後の高朱蒙(東明王)となります。また、新羅の国主の子、天之日矛が渡来した由来の神話でも、太陽の日を受け生まれた赤い玉から変化した美しい娘を追って天之日矛は日本に来たというのです。つまり、朝鮮半島では古くから日光感精神話により王族が生まれたという伝説が伝わっており、朝鮮半島自体は月神よりも太陽神を信仰する土地ではなかったかと考えています。先ほどのべた蘇我氏も発祥の地は多神社のそばで、新羅を発祥とする太陽信仰の氏族であったのではないかと考えます。
韓人の子、天智天皇
記紀で大化の改新(乙巳の変)での古人大兄皇子の言として蘇我入鹿を殺した様を、
「韓人が鞍作を殺した。私は心が痛む」
と記載されているのです。ここで古人大兄皇子と中大兄皇子は同じ欽明帝の子であるのですが、古人大兄皇子の母は蘇我系であるのに対し、中大兄皇子の母は皇極天皇(斉明天皇)でしたよね。おいらはここで皇極天皇こそ朝鮮半島の王室の姫であり、百済王室の末裔ではないかと考えているのです。そういえば斉明天皇が崩御された際に皇太子中大兄皇子は「麻の素服」を着て執政したと記述されていますが、喪中に麻の素服を着るのは現代の韓国でも行われる風習です。このことからも中大兄皇子はこれまであった親新羅の蘇我政権に変わって急速に大和朝廷の百済化を狙ったと思われます。しかし、その政権も長くは続きませんでした。その親百済の近江朝を倒したのが、海人系渡来人と旧蘇我氏の勢力をまとめた大海人皇子、つまり天武天皇なのでした。つまり天武天皇は太陽神信仰の勢力と月信仰の勢力の力を借りて近江朝をたおしたことになり、まさに太陽神と月神の融合が政権維持に重要な要因となったことは確実だと思っています。
太陽と月の融合、天照皇大神
こうして伊勢神宮で太陽と月の融合が図られ、女神太陽神の天照大神と弟神の月読神ができたと考えています。そうすると持統天皇が熊野や吉野、あと伊勢や三河まで行幸した理由がおぼろげに見えてきませんか?そうなんです、持統天皇は太陽と月が癒合した神の象徴として全国各地に行幸し、その存在を認めさせなくてはならなかったのでしょう。あたかも天武天皇が月で、持統天皇が太陽、その間にできた孫、文武天皇が神の子供として新しい国家「日本」を未来永劫統治できるように思いをこめて、、、、
そう考えると、持統の三河行幸の最大の鍵は、月神を日神にしていくという作業であったと考えられるのですが、実際行ってみると当時三河は旧出雲系の神ばかりだったのです。ここで持統上皇がとった政策が3種の神器の成立、つまり海神系月神アマテルと朝鮮半島から来た太陽神タカミムスヒ、あと新羅の神スサノヲがもたらした三輪山の神オオナムチの三神融合が三種の神器という形でもたらされたのではないかと思っています。そのことから、三河の山にあった出雲神オオナムチを里(現在の豊川市一宮町)の太陽のもとにさらしたのではないかと考えました。
意外と記紀編纂にてこずったのがこの時期なのではないの?
天武帝により倭と出雲と百済が融合し新しい「日本」という国家となり、日本にふさわしく、つじつまの合う神を日本全土に知らしめるために記紀編纂を命じたのですが、その後の持統天皇や文武帝の正統性主張や旧神の融合を図るため、相当てこずったと思っています。なんせ681年に天武帝が指示してから、古事記が712年(約30年)、日本書紀が720年(約40年)の歳月から、なみなみならぬものであったと思っています。このため多くの文章の書ける役人が全国に派遣され内情を朝廷に逐次報告させていたと思われます。そんな国家統一の大事業は持統にも受け継がれ、伊勢神宮という海人系のアマテラス神と山神系(朝鮮半島由来の高木神)タカミムスヒ神を融合させるという国家プロジェクトを成し遂げたのでした。最後の仕上げで東に存在していた旧出雲国家をなんとか伊勢神宮に合わせようとした志半ばで亡くなったとも考えられます。その後百済系の桓武天皇の即位により伊勢は急速にその力を失い、出雲系の国は「蝦夷」と呼ばれ武力により滅ぼされていく歴史なのですが、本来はすべての神を自分の神としてしまう「日本」という国家のアイデンティティーを作った天武と持統の業績は計り知れないものと思っています。
度会氏とホアカリと月信仰
これまで、内宮は天武、持統両天皇によって作られた、日神と月神の合体神社であり、そこはこれまであった3つの勢力を飲み込む形ですべての皇大神アマテラスが作られたのではないかと説明しました。
しかし、本来の当地にあった神はどこにあったのでしょう?
もともと度会氏の祖神は国之常立神(クニトコタチ)なのですが、おいらが注目するのは十代後に、アメノムラクモ(天牟良雲命、アマノムラクモノミコト)が挙げられている点にあります。「天牟良雲命」とは、「天叢雲命」あるいは「天村雲命」であります。これは、天村雲命」であれば、『海部氏本紀』に名を連ね、始祖ホアカリ(火明命、ほあかりのみこと)から数えて三代後ですよね。つまり、度会氏と尾張氏はここから同族であったとも考えられるのです。そうすると伊勢の元神も月神であった可能性は高いと思われますよね。そうしたちょっと斜めな見方で伊勢をみると、なんだか外宮が本来の元伊勢で、あとから内宮が作られた気がしてきませんか?
伊勢神宮外宮別宮 月夜見宮

御祭神:月夜見尊、月夜見尊荒魂
所在地:三重県伊勢市宮後1
月夜見宮は、おそらく度会氏の月神信仰の名残なんでしょうね。
なぜかおいなりさんがありました。
ここだけお社の方向がなぜか南南西なんですよね。他の内宮、外宮、月読宮は南向きなんですけど、、、
多賀宮
御祭神:豊受大御神荒魂
所在地:三重県伊勢市豊川町
外宮に ある多賀宮です。うわさによるとここが伊勢一番のパワースポットらしいですよ。
そういわれるとなんだかありがたい気がしますよね
もしかしたら伊勢で一番古い場所なのかもしれません。
月読宮
御祭神:月読尊、月読尊荒魂、伊弉諾尊、伊弉冉尊
所在地:三重県伊勢市中村町742-1
月読尊だけでなく伊弉諾尊、伊弉冉尊を加えているのは
後付のような気がします。
記紀のつじつまあわせに作ったのがこちらなのかもしれません。
でもこじんまりとしていて、更に人手が少ない静かな神社でおいら的にはツボですね。こういうところ好きです。
なぜかおいなりさんがありました。
ここだけお社の方向がなぜか南南西なんですよね。他の内宮、外宮、月読宮は南向きなんですけど、、、
多賀宮
御祭神:豊受大御神荒魂
所在地:三重県伊勢市豊川町
外宮に ある多賀宮です。うわさによるとここが伊勢一番のパワースポットらしいですよ。
そういわれるとなんだかありがたい気がしますよね
もしかしたら伊勢で一番古い場所なのかもしれません。
月読宮
御祭神:月読尊、月読尊荒魂、伊弉諾尊、伊弉冉尊
所在地:三重県伊勢市中村町742-1
月読尊だけでなく伊弉諾尊、伊弉冉尊を加えているのは
後付のような気がします。
記紀のつじつまあわせに作ったのがこちらなのかもしれません。
でもこじんまりとしていて、更に人手が少ない静かな神社でおいら的にはツボですね。こういうところ好きです。
