持統上皇三河行幸 その六 伊勢から三河行幸の理由を考える②

伊勢神宮とは一体何? 




 伊勢神宮とは一体何なのでしょうか?唐突にこんな問いを皆さんにお出ししたのですが、実際内宮や外宮に行ってみるとある一つの違和感を感じるのです。それは和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)の存在です。和魂(にぎみたま)は、神様のお優しい、温和な霊力を指し、荒魂(あらみたま)は、勇猛さの反面、粗野で、時には人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれます。和魂(にぎみたま)は、さらに人に幸福をもたらす幸魂(さきみたま)と、人に霊力など不思議な力を与える奇魂(くしみたま)に分類されます。元々神道は、太陽などの自然を神と仰ぎ、自然現象などに、その霊力を感じ取ってきました。自然は、日々の恵みをもたらしてくれると共に、時に、風水害・落雷・地震など、大規模な災害をもたらします。そのような自然の姿が、古代の人々の神への信仰に、大きな影響を与えたのではないでしょうか。人々に不利益を与える面も、荒魂としてお祀りしたのは、厳しい自然現象からも、神のパワー感じたからでしょう。和魂と荒魂の祭祀は、神や自然への感謝と恐れの気持ちと共に、それらへの、深い洞察を示しているのです。
 つまり伊勢神宮で国家として神をお祭りする以上、天変地異や自然災害などの国家を転覆させる可能性のある災害は本殿とは切り離して国家としての責任逃れをした格好とも解釈できますし、古より自然を祭っていたその土地の土着の神様を荒魂として挿げ替えたという解釈もできます。おいらはどちらもあったのではないかと思っています。

 
伊勢神宮内宮の正宮前です。そういえば来年が式年遷宮の年となっていましたね。








写真を撮れるのはこの階段の下までなので、しきたりに従ってそこまでの写真となっています。
 
実際はこのようになっているそうです。(内宮参集殿の展示写真より拝借)

 
以前は古殿地と呼ばれていたところが、地鎮祭が済んだので遷宮の諸祭がはじまってから遷御までの間は、同じ敷地を新御敷地と呼びます。


 
奥にある荒祭宮(あらまつりみや)です。行ったのが連休ということもあって参拝者も多かったです。
 
荒祭宮も遷宮をするのでこのように古い社殿の跡には石組みが残され、心御柱(しんのみはしら)の覆い屋が設けられています。
 
ご神体の新宮へのお遷し

 そういえば心の御柱は内外宮の床下に立てられた忌柱という柱で、「心御柱は
長さ5尺、径4寸の木柱であった。下方3寸を地中に埋め、心御柱を坐え終わると白布で巻き、榊で覆った」そして「伊勢神宮の正殿に安置されている神体の鏡は心御柱の上にあたる位置に祀られている。」といわれています。おそらく鏡はアマテラスであると思っているのですが、心御柱は一体だれでしょう?おいらはこれをタカミムスビだと思っています。この心御柱に近づくことができるのは13,4歳の童女(大物忌)といわれています。これを八卦で考えると人間で言うところの「兌」に相当するのです。そしてこれは金気でもあります。しかも「兌」は天の象徴「乾」と地の象徴である「坤」の間にあり、天と地をつなぐもの、つまり神話で言えばタカミムシビと一致するのです。

荒祭宮はアラハバキ神?
 この荒祭宮を一説によると(記紀解体―アラハバキ神と古代史の原像/近江雅和)もともとその土地にいたアラハバキの神様であると説明しています。
 その理由として皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮(あらまつりのみや)」という別宮扱いの社がある。荒祭宮は古来、天照大神の荒魂ということになっているが、内宮の別宮10社の中で、内宮神域にあるのは荒祭宮だけである。しかも他の別宮とは異なり、神嘗・月次の神宮の三節祭には、幣帛(へいはく)が内宮とこの荒祭宮だけに奉納されるなど、内宮と同格の扱いを受けている。皇大神宮が伊勢に遷座する以前は、この地はイセツ彦や磯部氏の本拠地であった。岡田精司氏は、荒祭宮の祭神こそ、古い内宮の地主神であったと述べている(「古代王権の祭祀と神話」著書)。また、松前建氏は「日本の神々」著書の中で、『荒祭宮の神に対する仕事が特に荒祭物忌と言って、特別な専属の巫女が置かれ、これは古い土地の豪族であった磯部氏から出していた』と述べています。
 ここから伊勢に古からいた神様は、三河国一宮の砥鹿神社奥宮に存在するアラハバキ神ではないかと考えられるのです。とは言うものの、実際行ってみると全然アラハバキの感じがしないのは何ででしょ?その謎は次の滝原宮に行って解けてきました。
 そうすると元伊勢といわれている滝原宮の謎も解けてくるかもしれません。滝原宮は三重県度会郡大紀町滝原にある元伊勢のお宮ですが、なぜかお宮に滝原宮と滝原竝宮の2つの別宮が存在するのです。
 
倭姫がここまでアマテラスを運んだかどうかは定かではないのですが、おそらく伊勢神宮内宮の元社ではないのかと思っています。
 
そばには非常に綺麗な清流も流れています。
 
参道もうっそうと茂った杉に囲まれ凛とした潔さすら感じます。
 
こちらに滝原宮と滝原竝宮があります。








滝原宮です。おそらくアマテラスをお祭りしているものと思われます。









滝原竝宮です。もしかしたらこちらはもともと地主神であった瀬織津姫(罔象女神)をお祀りしているのかもしれません。
 
 こちらの若宮(わかみや)神社には神体を入れる御船代を納める御船倉(みふなぐら)が併設されているそうですが、御船倉を持つ別宮は瀧原宮のみであるそうです。アマテラスが船で渡ってきたというよりは、穂高神社の穂高神のように安曇族のような海人系の渡来人のにおいがしますよね。 
 ここも皇太神宮の管轄なので、式年遷宮を行いますが、1年ずれて平成26年に行うそうです。天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢と呼びますが、別宮とされたのは瀧原宮だけだそうです。別宮とされた理由は不明ですが、ヤマト王権が勢力を南下させるにあたり重視した説などがあります。
 この滝原宮の北1kmのところに多岐原神社という地主神を祀った神社が鎮座しておりこれも皇太神宮所属です。
 
行きかたがわかりにくかったので紹介しますね。 
 
国道42号の舟木大橋南の東に曲がり、道なりに2kmほど進みます。
そうすると上の写真の真ん中にあるような小さな看板があります。 
そして少し降りたところに細い砂利道があるのでそのままおりていきます。
 
その奥にある小さな社があります。
 
 主祭神は麻奈胡神、まなこ、、、あ、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だ!つまり、こっちがアラハバキ様だったんですね。つまり倭姫の伝説によるとアマテラスを瀬織津姫のお祀りしていた場所にお招きしたのが、地主神のアラハバキだったんですよ。
 それが内宮では、アラハバキを荒魂として奥宮に置いたと思われるのです。そうすると瀬織津姫はどこ行っちゃったんでしょう?実は内宮の五十鈴川のほとりに小さな祠があるのを知っていますか?瀧祭大神は「おとりつぎさん」と地元の方々に呼ばれているそうです。
 

 以上から、アラハバキ神がアマテラスをまず瀬織津姫の祀る神社のあったところにお招きして、その後現在の地にアラハバキともども移っていったというのがどうやら真相のようです。その段階で場所をお貸しした瀬織津姫は小さなほこらとなって歴史から忘れ去られていったのかもしれません。

 この一連のアマテラスの移動を持統天皇が陰陽五行を用い行ったとすると非常に面白い考察ができるのです。アラハバキ神は天目一箇神で、製鉄、つまり金気のカミサマですよね。さらにタカミムスビという金気のカミサマを心御柱として地面に打ち込んでいます。そうする強力な呪術が木気たる伊勢を鎮める、つまり地震を抑えることができる隠れ神様なのです。こうしてアラハバキは荒魂として伊勢神宮の守り神となり、タカミムスビは床下に隠され秘匿されたのですが、なぜ瀬織津姫はこんなに端っこに追いやられたのでしょうか?瀬織津姫は当然水の神様で、水気の神様ですよね。水が木を生じさせるのでこの神様をお祭りしてしまいますと、地震が頻発する方向になるので、伊勢神宮ではものすごく小さな扱いとなったのではないかと思っています。元は大家さんだったのに、、、、