持統上皇三河行幸 その弐 三河行幸文献的考察 近代~現代編

「三河国古今城塁地理誌」 渡辺富秋(1684~1764)
 江戸時代の愛知県三河地方の地理書です。その中に「草鹿砥公宣、赤坂獄城に居す」という記述がでてきます。この草鹿砥公宣は「三河一宮砥鹿大菩薩縁起」という三河の国一宮の砥鹿神社に伝わる記述で詳細に出てくるのですが、要は天武天皇より派遣された勅使ということだそうです。

「三河国二葉松」 佐野監物 知尭(1684~1769)
 同じく江戸時代の三河地方の地理書です。その中の記述で豊川市赤坂町(赤坂嶽ヶ城)は古代、草壁皇子の皇居があり、この草壁皇子は天武天皇の子供であった。壬申の乱のときに遠州鹿沼に行き、そこから信州へ行き、また三河の宮路山に御所を構え軍勢を整えた、と書かれています。実際は、壬申の乱のときに草壁皇子はわずか10歳の子供なので、おそらくこの地にいた草鹿砥氏(三河国一宮砥鹿神社の宮司)を草壁皇子と誤解したのではないかと、太田亮も解説しています。

「神社を中心としたる宝飯郡史」
 この本は昭和5年に発行された東三河の宝飯郡について詳細に書かれている文献で、かの「姓氏家系大辞典」を著した太田亮先生が監修されています。その中で、持統天皇の三河行幸は可能性として2回、そのうち大宝2年の記述は万葉集にこの行幸をたたえる歌が納められていることからほぼ確実視されていると書かれています。また、その中で夏目可敬著の「参河国名所図絵」の中の記述で、御所宮が現在の愛知県豊川市御津町下佐脇にある佐脇神社のあったところだといわれております。
 また、旧音羽町の赤坂にある宮道天神社には草壁皇子をお祀りしてあるのですが、実際持統天皇がここで亡き草壁皇子をお祀りしたというよりはむしろ、この地にいた草壁氏(後述日下部氏)と誤って認識したのではないかと記述しています。
 
「海人と天皇」 梅原 猛
 梅原氏はその著書の中で持統天皇の伊勢行幸は、「天照大神」を祀る内宮建設のために出かけ、またその中で、この持統の東国行幸は東国征伐の拠点づくりという性格を持っていたと説明しています。

「壬申の乱を読み解く」 早川 万年
 早川氏は持統の東国行幸という記述で、参河行幸に際し「駕に従える騎士」の調が免除されていることに着目し、この地域での軍事行動が目的ではなかったかと述べています。このことからも、東海地域を軍事動員の基盤として積極的に位置しようとしたのではないかと説明しています。

「持統天皇」 吉野 裕子
 吉野氏は言わずと知れた陰陽五行の大家で、その著作「持統天皇」では大津皇子を謀反の疑いをかけて刑死させた持統天皇は次に自分の権力保持のため、わが子草壁皇子をも亡き者にしたという説を展開しています。もっとも、わが子を手にかけた持統にとってもこの出来事は心の痛手となり、呪術の限りを尽くして草壁の天上への再生をはかるよう願いを込めたと説明しています。最後に死を覚悟しした持統の三河行幸にそのような願いが込められているとしたら大変興味深いものと思っています。

「陰陽五行と日本の天皇」 吉野 裕子
 同じく吉野先生の本ですが、その中で興味深い話を見つけました。富士山と桜という話なのですが、円錐形で火を象る山としてその代表は日本一の富士山であり、「木生火」の法則によって桜の精としての「木之花咲耶姫」が浅間神社に祀られています。この辺の考察は後篇でやるのでお楽しみに。

「穂国幻史考」 柴田 晴廣
 おいらによくコメントをいただいている、まあ地域史の大先輩のような人です。その人の本によると、持統天皇は軍勢を率いて海路(数日で)伊勢より東三河の御津に到着しました。その目的は中臣神道が目指す女神の皇祖神アマテラスを頂点とする神々みとって障害をなす神々が存在する穂の国(現在の東三河)が障害になった。また、三河と穂の国が合併された後も旧穂国の中心となる豊川市国府地区に国府が置かれたのも東三河=穂国の監視と考えられると説明しています。また上陸早々宮路山から攻撃をかけられた持統行幸軍は、海岸伝いに蒲郡方面に敗走し、そこから矢作川を北上、尾張の国に入ったとも言っています。つまり持統上皇にとどめをさしたのは穂国だったというのが非常に面白い説であると思います。

「天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀」 榊原 康彦
 高校の先輩になる人です。持統天皇の三河行幸の目的を次の4つにまとめてあります。
1)鎮魂説
持統天皇は数々の謀略により「わが血の皇統」を確立したものの、伊勢、三河で行った殺戮、陰謀に対しての「贖罪」「怨霊封じ」のため。

2)反朝廷勢力の征圧
天武天皇の「七つの不可」に登場する「倭漢氏」の追撃。

3)「壬申の乱」の論功行賞
これは『続日本紀』の記述で、三河では誰一人褒賞をさずかった人はいないことは明白で、後日三河の人が勝手にそう思い込んでいるだけだと断言。

4)中臣神道の強制と天皇制の確立
柴田氏の説と同じなのだが、『日本書紀』『続日本紀』が三河を無視し続けた結果、穂の国は歴史の表舞台から消し去り、そこに住む人々の過去も誇りも奪い取っていったそうです。

「エミシの国の女神」 菊池 展明
 彼の説は大変面白く、一時おいらを虜にしてしまった説です。伊勢から見て鬼門に当たるこの三河の国に、いまだ蝦夷(エミシ)の神たるアラハバキ神が祀られていることは、まったく手つかずの「異界」となっていた。そこで持統は軍を送り、自らも行幸して確認しに行ったのだが、実はこの地には「瀬織津姫」というアマテラスに匹敵する女神が存在していた。この瀬織津姫こそ持統=アマテラスとなる最大の障害でもあり、日本書紀の記述の矛盾点となる女神として抹殺する対象となっていたと説明しています。

「古代の謎  抹殺された史実」   衣川 真澄
 愛知県岡崎市在住の歴史ライターで、彼は特に大友皇子について独自の視点を持っています。彼によると大友皇子は壬申の乱では亡くなっていなかった。岡崎市西大友町字天神に弘文天皇(大友皇子)を祀る大友天神社があり、そこの由緒書きに皇子がここに潜伏していたと書かれているそうです。つまり一時三河に大友皇子はいたのですが、持統上皇の三河行幸遠征軍の動きを察知して、素早く三河から蘇我赤兄のいる房総半島に逃げていったそうです。実際君津市小堰地区には大友皇子伝説が残っているそうです。

「東三河を中心とした古代探訪」  東郷 公司
 豊橋在住の郷土史家です。彼によると持統上皇の三河行幸は天武天皇からの心配事、東漢氏(やまとのあやし)の偵察と監視であったそうです。東漢氏は当時渥美国(現在の田原市)に居住していたと思われているのですが、持統上皇が遠征軍を送った時には既に移住した後であったと説明しています。

「東三河の歴史」  東三高校日本史研究会
 東三河の高校の日本史の先生が編纂した歴史書でその中にも持統上皇三河行幸の記述があります。そこでは壬申の乱において大海人皇子の勢力の拠点となった地方の旧跡を訪ね、天皇の権威を示したのではないかと説明しています。

「古代神都 東三河」  前田 豊
 これはかなりすごい説なのですが、持統上皇は石巻神(豊橋市の東にそびえる山)と薬師如来に文武天皇の平癒を願い、皇祖熊野権現を祭ることが主目的だった、と説明しています。面白いけど、、、、、

これまでの文献で有力な説をまとめると次の通りです。
1)持統上皇は三河を単に訪問したのではなく、何らかの攻撃目標として行幸した。
2)記述が空白になったのは記述すると都合の悪いことがそこにはあった。
3)行きは海路で行ったのだが、帰りは陸路となっている。
4)伊勢と三河は何らかのつながりがあったと思われる。

もし、この他に有力な持統上皇の三河行幸の文献がありましたら是非ご教示ください。
以上のことを考察しながら、東三河地方の持統上皇三河行幸の名所旧跡を紹介していこうと思います。そういえば前回場所の問い合わせがあったので地図載せておきますね。




佐脇神社
 


所在地:豊川市御津町下佐脇宮本81番地
御祭神:伊弉冉尊、速玉男命、事解男命

御由緒:大宝2年(702年)持統上皇三河行幸の際、この地を都と名付け御所川の水を奉る。字天神という所に「国帳」に記載の正五位下、下佐脇天神を奉斎していたが平安朝の末期に紀州熊野本宮の人、熊野三神を戴いてこの地に移注し、後にこの二社を合併合祀し、熊野権現と称した。天文六年(1537)領主長篠の城主奥平勝社殿を造営、以来社殿修復に寄進した。享保六年(1721)番衆佐脇四郎左衛門経巻を奉納する。明治五年十月十二日、村社に列し、同四十年十月二十六日、指定社となる。大正十一年六八日、郷社に昇格した。
 
本殿です。
一説によると、三河行幸の際の仮宮はここにあったと言われています。現在は集落の中の小さな神社となっています。

摂社の佐脇神社五社宮です。

招魂社と書いてあります。明治の維新以降にできた国家の英霊を祭るお社だそうです。
 
案内がありました。どうやら熊野権現の流れだそうです。
どうやらこの佐脇の地は和歌山、熊野から移住した人が多いみたいですね。 
そういう意味ではこの御津は海人系の移住地であり、持統上皇と海人系氏族のつながりの強さを改めて感じました。

お隣の豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがあるそうです。そういう意味では秦氏とのつながりも感じ、伊勢からこの地に繋がる海の街道筋があったと改めて感じました。

おまけ
その神社のおむかえに四国八十八箇所めぐりの地蔵様がありましたが、
「げげげの鬼太郎」に出てきそうな雰囲気で
昼なのにぞくぞくしちゃいました。


というわけで、次回は赤坂の地をご紹介します。