持統上皇三河行幸 その壱 三河行幸文献的考察 古典編

以前より持統上皇の三河行幸(愛知県東部地方)についてブログで紹介しようと思っていましたが、先日ついに聖跡と名高い宮路山に登ってまいりました。今回は今までのおいらの読んだ文献の考察と、現地で見て感じ取ったことなどをご紹介していきます。まずは今回は文献的考察です。文字ばっかりでごめんなさい。

「続日本紀」
 続日本紀とは、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、文武天皇(697)から桓武天皇(791)までの95年間の天皇を中心とした歴史書です。その中の大宝2年十月十日(702年の新暦11月4日)に持統天皇が参河国に行幸された、という記述が出てきます。
  
 詳しくそのあたりを述べますと、大宝2年九月十九日に伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に行宮(行幸中の仮宮)を造らせ、二三日には天下に大赦を行います。十月三日には諸神を祭り、十日には太上天皇、つまり持統が三河に行幸したとあります。ところが、ここから約一ヵ月間三河に関する記述はなく、突然十一月十三日に尾張、十七日に美濃、二十二日には伊勢へと到着し、各地で国守に恩賞を与える等をしています。そして二十五日に三河国より帰還されたと書かれています。その後、十二月二十二日には太上天皇(持統天皇)は崩御してしまいます。


「万葉集」
 言わずと知れた日本最古の歌集です。実はこの中に明らかに三河行幸時に詠まれたという歌があるのです。

作者:長忌寸奥麻呂、二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌
(持統上皇が三河國に幸ししときの歌)

引馬野尓  仁保布榛原  入乱  衣尓保波勢  多鼻能知師尓

引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに   右一首長忌寸奥麻呂

(口語訳)引馬野ににおうはんの林に入って衣を染めましょう旅のしるしに

作者:高市黒人,三河行幸,愛知,従駕,持統,羈旅,大宝2年

何所尓可  船泊為良武  安礼乃埼  榜多味行之  棚無小舟

いづくにか 船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻み行きし 棚無し小舟

(口語訳)いずこへ碇泊したのだろう、あの安礼の岬を回っていった棚無し小船は

作者:高市黒人、羈旅,異伝,愛知,地名

妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴

妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる

(口語訳)あなたも私も一つだからでしょうか、三河の二見の道から別れることができません

ここで出てくる引馬野、安礼の崎は現在の愛知県豊川市御津町(旧宝飯郡御津町)にある地名といわれていますが浜松説というのもあり、そのあたりのことは後述します。また二見の道は現在の愛知県豊川市御油町追分にある旧東海道と姫街道が分岐する場所をさしているとおもわれます。

また、三河行幸に関連した歌として注目されるのが

作者:舎人娘子、大宝2年、持統上皇の三河行幸に従駕した(『万葉集』1-61)。

大夫がさつ矢手挟み立ち向ひ射る円方は見るにさやけし

この歌は様々な人が解釈を加えています。その中でも森浩一氏と柴田晴廣氏が同じような主張をしているのですが、円方は三重県の松坂市にある湊を指し、おそらくそこから持統上皇は船に乗り、三河に赴いたと解説しています。

今回はそんな万葉集の歌碑の置いてある場所を紹介します。

引馬神社
所在地:豊川市御津町御馬梅田3番地
御祭神:素蓋鴫尊
御由緒:社伝に正暦年中(990~4)西京八坂神社の神霊を勧請し祀ったのが始まりで、その後、御馬 城主細川政信が再興し、明治制度めにより牛頭(ごず)天王社を引馬神社と改称して 現在に至っています。


南向きの鳥居から入って社殿は東向きとなっています。

立派な社殿です。
 
境内に万葉集の歌碑をみつけました。
 
さきほど紹介させていただいた長忌寸奥麻呂の1首が紹介されています。
今回はその引馬神社より北に500mほど行った持統上皇行在所の碑まで行ってみました。
 

この碑は、過去にこの持統上皇三河行幸の研究で業績のあった渡辺富秋、石川信栄、今泉忠男の三先人を記念したてられた碑です。
 
実は本当に何にもないところにあるのですが
 
近くに新幹線の線路もあるのでわかりやすい場所にはあります。
(でも車ではすれ違いは大変ですよ)
 
きちんと解説の看板もあります。
 
この歌碑は御津磯夫(今泉忠男氏のアララギ会での名前)の碑です。彼は斉藤茂吉とも交流があり、持統上皇三河行幸説に多大なる影響を及ぼしました。


さて、ここでこの続日本紀と万葉集の記述で次の3つの疑問点が浮上します。

 ①なぜ三河行幸の1か月が空白の記述となったのか?
 ②なぜ死ぬ間際にもかかわらず持統上皇は三河行幸をしたのか?
 ③伊賀、伊勢、尾張、美濃の各国守には恩賞を与えたのになぜ
   三河だけ与えられなかったのか?

次回からは、この3つの疑問を考えながら、今まで色々な人の諸説があるので、それらを紹介していきます。