秀吉はなぜ猿とよばれるようになったか?
戦国時代のドラマや映画でよく信長が秀吉をさして「サル!でかした」と呼んでいるのを耳にしますが、実際秀吉は猿と呼ばれていたのでしょうか?実際に信長の書状にはねねさん(秀吉正室)あての書状に「ハゲネズミ」と書かれていたそうです。
古くは秀吉が若い頃に仕えた今川家(戦国大名)家臣の、松下加兵衛の秀吉の印象では「猿かと思えば人、人かと思えば猿」と呼ばれていたり、秀吉の朝鮮出兵を聞いた蒲生氏郷は「猿め、死に場所を失うて狂うたか」と言ったそうです。ある程度悪評として猿と呼ばれていたのは確実のようですが、この猿は本当に悪評なのでしょうか?
実は秀吉には出自に諸説あるのですが、おいらがもっとも合理的に説明できる説が、秀吉傀儡子説です。傀儡子というのを皆さんはご存知でしょうか?傀儡子とは日本の中世・近世に、人形芝居を見せるなどして諸国を旅した漂泊の芸能者集団で、特に美濃、尾張、三河地方で活動をしていました。この傀儡子、海人系渡来人が朝鮮半島から持ち込んだ人形劇や芸能を寺社を中心に勧説し、生業としていたのです。しかも大江匡房の「傀儡子記」に、「夜は百神を祀り」とありますが、この「百神」とは、阿曇氏の祀る阿曇磯良(あづみのいそら)のことです。どうやら、傀儡子の発祥地は、北九州の志賀島にあるようです。志賀島といえば阿曇氏渡来の地であり、この阿曇氏は中央構造線に沿って東進し、秦氏、多氏と共に日本各地に拡散していきました。 また、傀儡子の由来で折口信夫、「偶人信仰の民族化並びに伝説化せる道 」によれば、クグという水辺の雑草で編んだ籠、久具都籠(くぐつこ)の略で、海人族はその籠に、神としての人形や、その御贄(供物)としての魚貝を入れて持ち歩いていたといいます。これが、江戸時代の傀儡師が胸にかけていた箱に変化したというわけです。
この傀儡子で長田通倫氏は面白い説 を展開しています。「傀儡子」を呉音和訓に基づく音訓変換法で変換すると「(午族は,)倭本族を懶い,倭支族を欺く」という意味になるそうです。この午族を天武朝より続く(高句麗)天皇家を指し、倭支族を朝鮮半島経由の中国呉越の民、そして倭本族を中国呉越地方より最初に渡来した倭族として解説しています。つまり自分たちの出自を、呉音に乗せて全国各地に流布していたという壮大な計画が読み取れるのです。しかも現政権の天皇を揶揄して、、、、
さて、話を戻すと、傀儡子の起源は奈良時代よりあった散楽という芸能といわれてます。散楽は、正倉院宝物の「墨画弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図りました。これにより、おそらく天武朝と阿曇氏との密接な繋がりが読み取れることができるのです。しかしこの散楽、桓武天皇(天智朝の回復)の時代になると、阿曇氏との繋がりを嫌悪した桓武により散楽戸は廃止されるのです。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていきました。
散楽[『信西古楽図』より] 東京藝術大学大学美術館所蔵
大和猿楽には、結城(観世)、円満井(金春)、外山(室生)、坂戸の四座をはじめ、近江の日吉神社に属する上三座、下三座があった。また、京都、宇治、伊勢、伊賀、河内、越前、熊野などにも猿楽があり、それぞれ鎬をけずっていた。各座は各地を精力的に巡業し、権門勢家に出入りして自流の隆盛に努力していたのです。また、猿楽は大和において「七道の者」とされ、漂泊の白拍子をはじめ、神子・鉦叩・鉢叩・歩き横行・猿引きらとともに下層の賎民であり、同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。同時代の押小路公忠は『後愚昧記』に、「カクノ如キ猿楽ハ乞食ノ所業ナリ。シカルニ賞玩近仕ノ条、世以テ傾寄ノ由。」と記している。この「七道の者」の意味は、律令制下、地方行政は大きく五畿七道に分けられていたのですが、そのどこにも所属しない漂泊の民という意味と、仏教用語で六種類の世界のことを六道と呼んでいたので、七道とはその世界から離れた者、つまり非常に辛辣な差別用語であったことがわかります。
ここで出てきた日吉神社の神様の使いとして猿が登場するのです。この日吉神社の猿の由来を調べてみると、もともと、釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことに由来する等の説もありますが、おそらく太陽の昇るのがはっきりとわかる近江の坂本の地で、太陽の観測をしていたところ、日が昇ると共に猿が鳴くので、神の使いとしてあがめたのではないかと思っています。
さて、秀吉と信長のつながりについて次に考えていきましょう。実は折口信夫の「河童の話
」で興味深い記述があるのです。津島神社の津島祭りに馬の禊の神事があるのですが、その神馬の口綱をとつて居るのが猿なのです。津島神社といえば織田信長、そしてその口綱をとるのが猿こと秀吉といった見方はできないでしょうか?
ここで織田信長についても考えていきましょう。織田信長の織田家は代々、福井県越前町織田にある劔神社(越前二の宮)の神官であり、尾張に移って後は、勝幡(しょばた)城で生まれ育ち、津島神社のある商都・津島の領主であったことに由来するそうです。そして織田信長は、津島の財力を背景に尾張を統一したといわれますが、信長の祖父、織田信定は津島の北西約4キロの所にある勝幡城の城主ですが、大永四年(1524年)に津島を支配下に入れ、それ以来、信長の家(弾正忠家)は尾張の実力者として、主家を凌ぐ力を持ちました。織田信長は天文三年(1534年)、勝幡城で生まれ、たびたび天王祭りを見物したり、女踊りをしたといわれています。津島の街が信長の経済感覚を植え付け、彼の人間形成に大きな影響を与えました。
津島はもともと海部氏の拠点でもありましたが、尾張地方を支える港町でもあり、物流の一大拠点であったことはよく知られています。一説によると津島は対馬であり、新羅→対馬→(宗像)→出雲を経由し、交易をしていたスサノヲが出雲の初代産鉄系民族だったヤマタノオロチ王を滅ぼし出雲の王となったのですが、その末裔たる天火明命を祖とする海部氏や尾張氏であったと思います。しかもこの津島神社は出雲のスサノヲが降臨したといわれる鳥髪峰(現:船通山)の真東に位置しているのです。つまり海人族の一大拠点でもあり、アマテラスによって追いやられたスサノヲの地でもあるのです。ここには当然阿曇氏、秦氏、多氏などの海人系の渡来人も多く集まり、その中に傀儡子としての秀吉の姿があったのかもしれません。また東海道では傀儡子の拠点としては平安時代以来、遠江国では橋本・池田・菊川、駿河国では手越・蒲原・黄瀬川、さらに美濃の青墓宿、三河の赤坂宿など東海道各地の宿場に広く分布していたといわれます。当然今川方の勢力圏であったと思われるので秀吉が最初今川方に仕官したのもうなづけるような気がします。そしてその漂泊民のネットワークを用いて墨俣一夜城を築城できたのかもしれません。
まとめると、安土桃山時代、京の一般庶民にとって織田信長は、第六天魔王、つまりスサノヲの再来として映っていたのかもしれません。そして時は本能寺後、あらよあらよと天下人になった秀吉は自分の出自が漂泊の人であったということはひた隠し、織田信長の後継者として馬を導く日吉の猿としたのではないでしょうか?(秀吉の幼名日吉丸も後付けの話なのではないでようか?)つまり実は猿というのは良い意味で使っていたのだと思います。しかし、江戸時代になって徳川の世になると、出自を知っている人々から、猿=秀吉と悪い意味にも使われるようになって行ったのかもしれません。
と、秀吉と猿について今回考えたのですが、次回は信長とスサノヲについて考えてみたいと思います。ついでに津島神社も紹介しますね。




