大和の秦氏からひこにゃんへ


 お久しぶりの歴史ネタです。上海に行く前に日帰りで奈良に行っていたのですが、今回はそのときのねたをお送りいたします。大和といえば大和朝廷の発祥の地でもあり、出雲信仰から春日信仰へと神道の変遷もたどれるいわば宝の小箱ですよね。そんな奈良盆地にも秦氏の居住した痕跡があるのです。




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中国風の山門が変わっています。


秦楽寺

住所:奈良県城郡田原本町秦庄267

宗派:真言律宗
本尊:千手観音像(平安時代作) 脇侍に聖徳太子像、秦河勝像


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伝聖徳太子像です。


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 近鉄橿原線の「笠縫」下車、徒歩5分のところにある静かなお寺です。秦楽寺(じんらくじ)の創建は大化三年(647年)聖徳太子の家臣、秦河勝によると伝えられ、平安時代には弘法大師が宿し「三教指帰」を著したともいわれる由緒あるお寺だそうです。この三教指帰、『聾瞽指帰(ろうごしいき)』とも呼ばれ、空海がまだ24歳のころ出家を反対する親族に出家の決心を伝えたという書であったと伝えられています。特にこの頃の空海は吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねており、役小角(えんのおずぬ)由来の修験道を信仰していたと思われます。つまり修験道とこの秦楽寺は何らかの関係を持っており、秦氏と修験道の繋がりを感じざるをえません。




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残念ながらその日はお寺の住職は不在で誰もいなかったので本殿の中にあった千手観音、聖徳太子像、秦河勝像は拝むことはできませんでした。

 

 このお寺の周囲は大字秦庄という地名で、もともとは池や沼地でしたが、秦氏が渡来し、治水工事をした結果見事な田畑となったところです。特にこのあたりから大和郡山ぐらいまでは用水や堀が張り巡らされ見事な灌漑施設となっています。山側の三輪には古くから住んでいたヤマト王権がその頃にはあり、当時新参者として入ってきた秦氏がものすごく苦労してここに定住していった面影を感じざるをえません。当時でも秦氏は辺境の人々であったと思われるのです。


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秦楽寺の裏にあるため池です。昔はここはお堀となっていて、秦氏の治水技術の高さを感じます。




 秦楽寺の名前の由来で「楽」という字が入っていますが、この「楽」は神楽や猿楽の楽であり、秦楽寺とは秦の楽人という意味となり、世阿弥の著した『風姿花伝』では秦楽寺の門前に金春屋敷があり、この金春氏こそ秦氏の末裔とされ室町時代の能役者、金春禅竹に繋がっていくのです。


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 この秦楽寺の山門は珍しい土蔵作りの中国風の山門です。また境内には大和三楽寺の三池の一つである『阿』の字をかたどった阿字の池があります。寺伝によれば弘法大師が三教指帰を執筆中池の蛙の鳴き声がうるさかったためにこれを叱りつけたそうです。それ以来この池には蛙の鳴き声がしなくなったそうです。なんだか不思議な言い伝えですよね。


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阿字の池


 ここ秦楽寺にはもう一つ面白いものがありまして、なんと境内の中に春日神社と笠縫神社が鎮座しているんですよ。神仏習合の一面だと思われますが、いまだにこういう風景に出会えたのも何かうれしい気がしました。ところで、この笠縫神社、実は元伊勢の一つと言われているところもあるのです。記紀によると伊勢内宮の天照御大神は、祟神天皇の時代までは天皇と『同床共殿』であったと伝えられ、皇居内に祭られていた神様でしたが、その後その状態を祟神天皇が畏怖し、彼の娘である豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に天照大神を宮中から笠縫邑に遷して祀り、以後垂仁天皇の時代となり倭姫命(やまとひめのみこと)に交代となるまで祭祀を続けたといわれています。つまり秦氏の根拠地と初代斎宮が同じところにあったというのは何か不思議な因縁を感じます。


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春日神社です。


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こちらが笠縫神社です。


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中はこのようなお社になっています。




 そういえば、この秦楽寺の境内の中にもう一つ不思議なものがありました。『歯龍王神』と書いてある祠です。龍王といえば八大竜王が天竜八部衆二所属する竜族の八王で、西は宮崎県高千穂の八大龍王水神社から、大和葛城の八大龍王神社、長野戸隠の奥宮にある九頭竜神社、秩父今宮神社の摂社として八大龍王宮とあたかも前回までの秦氏の足跡をたどるように存在しているのです。しかも戸隠の九頭竜神社は歯痛の神様でもあり、何かこの祠とも因縁を感じるのですが、はっきりとした文献が残っていないので、なぜここに歯龍王神といった神様が祭られているかもよくわからないところがあります。




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歯龍王神の祠です。


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いわれはよくわかりません。


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その前には小さなイワクラもありました。




 この秦楽寺のある秦庄から南へ1kmぐらい歩いたところに多神社という神社があります。ここ由来の多氏という一族は日本最古の皇別氏族(皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉)といわれています。この多氏は、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明です。一説によれば神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もあるぐらいです。




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多の集落です。家の前には水路がはりめぐらされていて趣のある集落です。



 

多神社(おおじんじゃ)  

正式名:多坐弥志理都比古神社

住所:奈良県磯城郡田原本町多569
祭神:神武天皇・神八井耳命・神淳名川耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)


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 多神社本殿は、東西に1間社が並ぶ四殿配置の形式をとっています。東の第一殿が神武天皇を、第二殿が神八井耳命を、第三殿が神淳名川耳命を、第四殿が姫御神をそれぞれ祀っています。このうち神八井耳命は多氏の祖とされています。四社とも南面した一間社春日造で、第一・二殿が1735年、第三・四殿が18世紀中頃の建造ということです。


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神武塚とよばれる円丘です。

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その前には小さな祠があります。 

 この多神社の裏手には多遺跡という弥生時代からの祭祀跡もあります。特にここにある円丘は神武塚と呼ばれここを神籬として祭祀を行っていたとのことです。また南側にはわずかに方丘の面影をとどめており、古代中国の史書に中国王朝歴代の祭祀では、「天は円に、地は方に、道は中央に在り」(『淮南子えなんじ』書天文訓)とされ、天神を祀るのに円丘を、地神を祀るのに方丘状の祭壇を、それぞれ用いていたそうです。これを道教の思想で「天円地方」と呼び、魏志倭人伝で「鬼道」と呼ばれる道教がここ、大和に弥生時代にもたらされた痕跡としてとらえることができるのです。



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多神社の南側にある皇子神明神社です。このような小さな神社がここには点在しています。


 また、多神社の位置からは、真東にある三輪山の春分の日の出が正面に見えることや、鏡作神社と畝傍山を結ぶ直線の中央に、多神社があることから、すでに方位的な何か重要な場所としてこの地が祭祀の場所であったことがうかがわれます。




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これは多神社の東側にある神社です。



 最近では2010年に奈良時代のものと思われる銅鏡が1枚出土しました。その時見つかった銅鏡は直径5・1センチ、厚さは2ミリで、中国・唐で盛んに作られ、国内に持ち込まれた海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)を模造したもので、細かい仕上げはされていなかったそうです。つまり奈良時代に入った7世紀から8世紀に、ここ多神社では古代祭祀がいまだ行われており、その名残が出土したものと思われます。


 さてこれまで秦氏と多氏はこの大和の地でいえば、お隣さんといったイメージなのですが、実は秦氏と多氏はほとんど同族と考えられるのです。思い出してください。前々回の「山梨に秦氏の足跡を追う 」にでてきた常世の神を作り出していた秦氏の姓を、、、そうなんです。富士川のほとりで常世の神を作り出していたのは大生部多(おおふべのおお)でしたよね。実はこのオウという地名が富士川流域の身延地方に存在し、そこは甲斐国巨摩郡飯富(いいとみ)郷とよばれ、飫富氏は多氏の末裔とされているのです。考えてみてください。戦国時代甲斐武田最強とうたわれた赤備えの山県昌景の元の名前は飯富源四郎なのです。




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 つまり歴史上秦氏と多氏は、出自は異なるのですが、経済基盤は同じようなものであったと思われますし、後世では広義の秦氏となり全国に拡散していったと思われます。そこで秦氏の経済基盤である朱丹を鎧に用いたのが赤備えの鎧であったのではないかと思っています。




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 そう、後にその赤備えは徳川四天王の井伊直政が受け継ぎ、その後彦根城の城主となり、あのひこにゃんが赤い兜を被っているのに繋がっているのです。もしかしたら今もひこにゃんにより秦氏の経済が支えられている、、、、わけないか(笑)