謎の渡来人 秦氏を追う  第15回

聖神社から神保町へのつながり



聖神社(ひじりじんじゃ)


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所在地:埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191

主祭神:金山彦命、国常立尊、大日孁貴尊(天照大神)、

     神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に

     元明金命(げんめいこがねのみこと。元明天皇)を合祀する。




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聖神社は国道140号線のすぐそばにあります。



 皆さんは和同開珎という銅貨をご存知でしょうか?おいらの子供のころにはまだ富本銭が見つかってなかったので、日本最古の貨幣として学校で習いました。そんな今ではセカンドポジションに落ち着いてしまった和同開珎、この貨幣を祀る神社が埼玉県の秩父に存在するのです。




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本殿です。


 和同開珎の記事は続日本紀巻第四 和同元年(708)年の記事に登場します。記事としては武蔵国の秩父郡で自然に生じた熟銅(にぎあかがね)が出たという奏上があったとのことですが、その後、元明天皇はこのことを記念し元号を『和同』と変え、これまでいた藤原京から平城京へと遷都の計画を発表しました。あたかも今までの都を放棄し、新しい世の中へとするように、、、、




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本殿横にある巨大な和同開珎のレプリカ



 そしてとれた銅を使って同年7月に近江国で和同開珎の銅銭を鋳造させ、8月に初めて銅銭を使用させたという記事があります。おそらくそれまでは中国より輸入していた開元通宝と、無文銀銭という私鋳銭が一般的には流通していたものと思われます。しかし、遷都計画を発表し国家財政を潤したいと考えた朝廷は、新貨幣を製作し、その貨幣を用いて一気にデノミ(change of denomination)を推し進めたのだと思います。それは和同開珎の銅銭を集めることにより官位が買えるシステムを作ったのです。




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銭神様として様々なご利益が、宝くじ、商売繁盛といろいろです。



 それは和同4年の『蓄銭叙位令』という法律で、一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるよう、定められました。早くも11月には叙位のあったことが記されています。



 秩父の銅発見はそんな国家の近代化政策の一環としてプロパガンダに使われたのですが、そこで元明天皇はこの地に面白いものを下賜されました。本来は文武百官を遣わすところを、なんと銅でできた百足を送ったそうです。それは聖神社のご神宝として今も大事に所蔵されています。ここで何か気がつきませんか?そう、戦国時代の有名な武田軍団を支えた金山の鉱夫たちを『百足衆』と呼んでいたのです。


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聖神社の御神宝の『百足』さんです。研究者によると非常にリアルにできたオオムカデだそうで、金属的にも和同開珎の金属組成と変わらないそうです。


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和同と和同開珎の解説書です。

 

 実は秩父と山梨とは、古代より雁坂峠によって繋がっていて、「日本書紀景行記」では、ヤマトタケルもこの道を通ったそうです。この雁坂峠の峠越えをしたところには三峰神社という神社があり、ここでは山の中に小祠ではありますが海洋系神社の月讀神社もあり海洋性産鉄民族が富士川、笛吹川を北上、雁坂峠を越え、ここ秩父へとたどりついた軌跡も見ることができます。



雁坂峠にあったクマ出没注意の看板、子供はこんなの見たことなくて大喜び!?



 つまり、武田の屋台骨を支えた『百足衆』とは、おそらく海洋性産鉄系の漂泊民で、彼らをまとめていたのが秦氏の末裔であったと思われます。というのも、武田の配下で後に徳川についた大久保長安なる人物を皆さんは知っているでしょうか?彼はもともと春日大社で猿楽を舞う金春流の猿楽師で父の代に戦乱を避け甲斐の国に流れてきました。(この頃は大蔵長安という名前だったそうです)おそらく秦氏の末裔である長安は、漂泊民ならではのネットワークを持っており、この重要性に気づいた信玄は彼を重用し黒川金山の開発などに従事させていくのです。(山本勘助の真実 第2回 忘れ去られた民族参照




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聖神社の摂社、和同出雲神社です。本来はここは出雲系の神様だったのかもしれません。



 その後、武田氏の滅亡により徳川に召抱えられた長安は大久保忠隣(おおくぼただちか・長篠の戦いで有名な大久保忠世の息子)の与力となり、彼が出世するごとにめきめきと頭角を現し、八王子の治水、佐渡金山や生野銀山の経営、一里塚の築造等の業績を重ね、ついには徳川幕府の老中まで上り詰めた唯一の外様の人物として天海と並び徳川黎明期の巨人として小説等でも扱われることが多いのです。



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 つまり、秦氏のネットワークは甲斐の国から雁坂峠を越えて秩父へ、さらに上野国 多胡郡へと至って行くのです。ここ上野国多胡郡の秦氏から神保氏(越中の戦国大名)が興っており、私たち、歴史愛好家の聖地、神保町の古本屋街に繋がっていくのは歴史の妙であり、秦氏の様々なつながりというのも垣間見た気がします。さらに上毛かるた(「桐生は日本の機どころ」)でも有名な養蚕の里、桐生市を通り、道鏡伝説の金精峠を越えていけばもうそこは日光となるのです。




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雁坂峠のループ橋、現在は非常にきれいな道となっていてドライブコースにもなっています。



 実は越中の戦国大名神保氏には神保氏春という武将がおり、この武将が長続連とともに織田信長の越中攻略に協力し、その見返りに織田信長の姉を妻とし織田家臣の一員となりました。。その後上杉謙信の侵攻により神保家は降伏、一時は謙信の配下となっていましたが、謙信死後、再び織田家臣の一員となりました。そうそう、彼は佐々成正とともに能登末森城を攻めるのですが、あの前田慶次こと前田利益に負けたことでも有名ですね。(笑)

 その後、彼は徳川家康に旗本として召し抱えられ、その子孫、神保長治がその後日光山の管理や佐渡奉行等を行っていたことにより、現在の神保町に広大な屋敷を構えていたそうです。そこの屋敷の小路を神保小路と呼んだことが、現在の神田神保町の由来となっているそうです。