月読神社



所在地京都府京都市西京区松室山添町15

御祭神:月読尊




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境内解説

 月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。

 文献によれば、顕宗三年(487年)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(856年)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。

 境内には、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。

 月読神社が京都にもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祗信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神社であるといえます。




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月読神社本殿


月の神様

 月の神様といえば、有名なのはギリシャ神話に出てくる女神、アルテミスでしょう。アルテミスは地母神の性格も持ち、主に受胎や出産をつかさどる神様でもあったといいます。しかし、昔の出産は常に死と隣り合わせ(出産による死亡率で男女間で10歳の平均寿命の開きがあったらしい)なことであったので、特にアルテミスには人身御供の習慣もあったそうです。ちなみにローマ神話ではアルテミスに対応する神様はダイアナです。


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月の神様 アルテミス


 西欧では、地母神信仰から女性の神様でしたが、メソポタミアではシン(Sin)という男の神様でした。風の神様エンリルの子供で、主に暦を司る神様として、農耕神の側面を持っていました。


 中国では、月の神様は嫦娥奔月という神話に登場する嫦娥という女神が月の神様となっています。しかし、この神様、不老不死の薬を独り占めしてしまったがために月でヒキガエル(蝦蟇)になってさびしく暮らしていると伝えられています。しかも中国ではヒキガエルのことを「顧菟」と表記するので、「菟」字が「兎」と誤認識されてそのまま月に兎が住んでいるといわれるようになったとも言われています。



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 では日本神話に出てくるツクヨミはアマテラスの弟という形で登場します。しかし、ウケモチという食物の神様を殺すことにより、そこの頭から馬や牛が、ひたいの上には粟が、眉毛の上から蚕が、目の中には稗が、腹には稲が、陰部には麦と大豆と小豆がそれぞれ発生したといわれています。このように死体から作物が発生する神話は、ドイツ民族学者のイエンゼンによってインドネシアなど熱帯地方に伝わる女神の神話として「ハイヌウェレ型」として分類されています。そういえばスサノヲが殺した食物の女神はオホゲツヒメ(大宜都比売神)でした。これはどういうことなんでしょ?

 おいらはこの神話はもともとハイヌウェレ型神話として東南アジアより伝わっていた神話が、アマテラスを女性にしたために、月読尊を男性、男神として扱わざる負えなかった日本書紀の事情というものがあったと思います。本来地母神たる月の神様は女性で、それが殺されることにより、つまり日の光が長くなることによって作物が実り豊作となるのですから。では逆と仮説するとどのようなことになるのか?天照がニギハヤヒで男神とすると、ツクヨミは女性神で作物の神様ということになるのでしょうか?


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月読神社内にある月延の石です。子宝、安産のご神得があるそうです。

説によると神功皇后(じんぐうこうごう)は月神のご神託により、応神天皇を胎内に宿しながら新羅遠征に立たれたが途中、神石をたもとに挟まれて御心を静められ出産を延べられて御子、応神天皇をご出産されたということが、壱岐・月讀神社の社誌に記されています。そしてこの石は雷に当たり三つに割れて、その一つがここ、京都の月読神社にあるのです。


 しかし松尾大社の月読尊は男性として描かれていますが、女性の月読尊はどこにいったのでしょう?おいらはこれが穀物・養蚕の神として稲荷神となっていったのではないかと思っています。それは伊勢の外宮に伝わる伊勢神道によって再び歴史にあらわれるのです。つまり古事記で登場する食物・穀物を司る女神です。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになりました。そして豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしています。つまり月読は女性神で、現在でもアマテラス、つまり伊勢の内宮のそばにいるのです。ただ、それを隠しておきたいことから内宮を作った際、内宮のそばに月讀宮として男神のツクヨミをお祀りした思われます。


 月読尊≒女性神≒タカミムスビ≒稲荷神


 さーて、そんな月読尊をまつる神社は京都だけではなく、実は壱岐島にもあるのです。壱岐の月神は壱岐の月読神社(つきよみじんじゃ:壱岐市芦辺町)に祀られ、古くは『日本書記』の顕宗天皇三年487、遣任那使(けんにんなし)となった安閉臣事代(あべのおみことしろ)が壱岐、対馬の海域を航行していると、壱岐県主(いきのあがたぬし)の祖神の月神と対馬下県直(つしましもあがたのあたえ)の祖神の日神が、高皇産霊神のために神田を献上するよう託宣したという記事があります。




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月読神社内にある聖徳太子社です




 ここ壱岐の島にいて祭祀をつかさどっていた一族が壱岐氏と呼ばれる人々ですが、現在では島では苗字に壱岐がつく人はいなくなってしまったそうですが、九州のあちこちにはいるそうです。また万葉集にこの壱岐氏の名前があり、壱岐の島の史跡にもなっている遣新羅使の墓として伝えられている「壱岐連やかまろ」の母は秦大魚(はたのおおな)の娘なのです。このことからも壱岐氏と秦氏は早くから同族化していったことがわかります。また、壬申の乱で有名なのが近江朝の軍人「壱岐韓国」です。最初は近江側として優勢に戦いを進めていたのですが、当麻の合戦、箸墓の合戦の敗北により、大和を大海人皇子に握られる事になりその後の韓国の消息は分からなくなっています。白水江の戦いに敗れた壱岐・対馬の海人族は壊滅的な打撃を受けてしまいさらに壬申の乱でも近江側についていたために、いままでの栄光や実績は木端微塵に打ち砕かれてしまったのでした。そんな時代的な背景の中で完成された、古事記、日本書記には、壱岐の事など表に出しにくい時代だったのでしょう。




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中央にある神楽殿です。

 やがて、清和天皇の時代に京都に壱岐より奉祭した月読神社は伊勢の内宮の別宮の月読宮、外宮の月夜宮にに祭られました。月読神と天津日子根命は深い関係がありそうです。

 
 この壱岐の月読と対馬の天照の話は後日、、というかまだ行ってないのでぜひ今後一度は行ってみたいと思っています。




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摂社の御舟社です。このような舟を祀る神社は穂高神社や鹿島神宮などにみられます。 


今回月読神社によって、意外にも女神アマテラスを作ったことによって消された神々もいるということが再認識できました。おまけに伊勢に行く楽しみもできたので、お伊勢さん行ってきた折にはまたご報告しますね。


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