松尾大社




 所在地:京都府京都市西京区嵐山宮町3

御祭神:大山咋神、中津島姫命

 

続日本紀によると、大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させたそうです。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めました。


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 この神社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石があります。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神としました。この祭神の大山咋神ですが、古事記に記述があり、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されています。神話ではスサノオと神大市比売(かむおおいちひめ)との間にできた大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子と言われています。大山咋神に関して、丹波国(京都府)の浮田明神にまつわる古い伝承があります。それによれば、太古の昔、丹波の国は湖水であったが、大山咋神がその湖水を切り拓いたので、水が干上がって国土となりました。人々はこれを感謝して祠を建てて祀ったという。この話から連想すれば、大山咋神は治水、開発の神であったことがうかがえます。実際にその御神体は鍬であるというから、農耕信仰の守護神として崇められ、この伝承と秦氏の治水、土木技術から考えれば、当然葛野の里を作った神様を祭るのはごく自然のことと思います。




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本殿の屋根は「松尾造り」と呼ばれる両流造りの構造で、宗像大社、厳島神社の3社しかないそうです。


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京都の山の中にこんな海人系のにおいぷんぷんな神社は面白いですね。


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酒造の神様だけあって有名な酒樽が置いてあります。


 また、大山咋神は、松尾大社では醸造の守護神として崇敬を集めています。本来、この神様は酒造とは関係がなかったのですが、松尾大社の近くの秦氏の氏寺、広隆寺の境内に祀られていた大酒神社の酒造の神が合祀されて、醸造の神として神格を備えるようになったものという。また、暦をつかさどり、農耕信仰の守護神、つまり稲荷(稲がなる)の性格も持つこの神が、米という穀物から生まれる酒という精霊と結びついていったのではないかと思います。


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亀の井という井戸で、酒造りの井戸だそうです。


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霊亀ノ滝とよばれるところです。マイナスイオンに満ち溢れたところです。



 祭神中津島姫命は、市杵島姫命とされているが異説もあります。市杵島姫命と言えば宗像三女神の次女で海上守護神であり、厳島神社の祭神でも有名です。そういえば宇佐神宮にもお祀りされていますね。しかも宇佐神宮のおひざ元、中津は秦氏の一大拠点で、古の隋書にでてくる秦国があったところとも言われています。




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摂末社の四大神・衣手・三宮・宗像(市杵島姫命)です。

宗像神社が末社に祭られています。



 松尾神社宝物館と磐座



昭和を代表する作庭家、重森三玲による名園「松風苑〈曲水の庭〉」を巡って宝物館に入りますと、正面に御神像三体が鎮座しています。向かって左から男神像(老年)、女神像、壮年の男神像。わが国の神像彫刻史上で現存最古(平安初期の作)に属しながら保存状態に優れ、その姿は神像にふさわしく気品が漂うとされています。 男神は巾子(こし)の短い冠に古式の萎(なえ)装束姿、女神は結髪で左前の唐服姿です。実はこの3体の神様、老年男神像を御祭神の大山咋神、女神像を同・中津島姫命(市杵島姫命)、壮年男神像を摂社・月読神社の月読尊に擬すといわれているのです。


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すいません、宝物館では写真撮れなかったので、ネットから拾ってきました。



そうです、これこそおいらはあの木島神社の三鳥居の3神だと思っています。つまり秦氏の祀る神様は、大山咋神、中津島姫命、月読尊を配し、その中心に天照御魂、つまりニギハヤヒを祀っているのです。しかも前述の造化の三神にそれぞれが対応するのです。つまり大山咋神が天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、中津島姫命が神産巣日神(カミムスビ)、月読尊が高御産巣日神(タカミムスビノカミ)にそれぞれ当てはまります。


つまり、古の渡来人秦氏は、おそらく天孫系の物部氏とほぼ同様の時期に渡来、ここ、京都の葛野に根を下ろしました。その時に中国より持ち込んだ道教の神様が天之御中主神だったのです。しかし、そこには磐座を祭祀する土着の原始的な宗教があり、おそらくそれを大山咋神とし、秦氏の神様に挿げ替えたのでした。また神産巣日神は女神とも言われているので宗像の中津島姫命(市杵島姫命)が相当すると思われます。ここで考えてほしいのは、もともと宗像氏は筑紫の海人(あま)族を統べる氏族でした。宗像三女神(沖ノ島沖津宮の田心姫(たぎりひめ)神・大島中津宮の湍津姫(たぎつひめ)神)・辺津(へつ)宮の市杵島姫(いちきしまひめ)神)を祭祀して、朝鮮半島との海路の支配と文化の移入において、新羅と密接な関係を持っていました。当初秦氏は辰韓から日本列島に渡来した渡来人だと記述しましたが、当然彼らは海の神様を祭ることは不思議ではありません。また月読尊が高御産巣日神というのは、日本書紀巻第十五の顕宗天皇(けんぞうてんのう)の三年春二月一日の記述で、、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録があるのです。つまり、秦氏の氏神自体はもともとは壱岐の流れもあるということなのです。


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松尾神社の葵の紋です。



記紀でいう造化の三神とは、つまり渡来系の神様であり、中国よりもたらされた天之御中主神、朝鮮系で壱岐よりもたらされた高御産巣日神、朝鮮系で対馬よりもたらされた神産巣日神が渡来系の氏族の根源的な神様となったのです。そして大和を平定した皇祖神、ニギハヤヒを天照御魂とし、中心的な神様として祀ったのが律令体制以前の渡来系古神道だと思っています。


そしてもう一つ重要なヒントが神話の中に隠されているのです。それは八咫烏のエピソードです。八咫烏は神武東征の際、月読尊の高御産巣日神によって神武天皇のもとに使わされ熊野から大和へ道案内をした三本足の烏です。この三本足の烏は何を意味しているのでしょう?あ、そうか!!あの木島神社の三本鳥居は八咫烏止まれるようにもなっているんだ。そういえば八咫烏は八田烏、つまり秦烏ともつながり、神功皇后などは葛城の秦氏の出身とされており、賀茂一族との関わりも深く、「皇室を操る外戚の存在を隠蔽する目的で八咫の字が当てられるようになった」という伝承も秦氏の社家に伝わっています。




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 また、『三国史記』によれば、高句麗国を建国した東明聖王(日の出の太陽神)は卵から生まれたとされ、オイ、マリ、ヒョッポの3人の家臣を連れていた、その伝承をもとに高句麗では三本足の烏が神聖視されていました。それが鴨氏や賀茂氏、また秦氏の伝承となって記紀に記されるようになったという説もあります。(谷川健一、日本の神々より) 

 


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どうも土俵があると出雲系の神様を考えてしまいますね。


 今回は松尾大社と三柱鳥居のつながりを考えて、おいらなりの考察をいうと、もともと秦氏を中心とした渡来系の民族は一度に来たのではなく、必ず先駆者が定住し、その土地を切り開いてから、後に後続の民が渡来していったのではないかと思います。そこで、時代、時代であがめていた神様も変わったので、おそらく何神もの神様が複雑に祀られているのと、律令国家により天照大御神(女神、アマテラス)の神を信奉するような国家形態となり、古き神は封印されるようになっていきました。しかし、記紀を編纂した藤原不比等らも、その勢力までは排除できず、政治からは遠ざける代わりに、何かしらの特権(絹製品の独占や酒造権、芸能など)を与えたのではないかと思います。また平安京に都が遷都されたのちは、さらに経済的な特権、つまり祭り(葵祭、祇園祭、京都三大祭の二大祭り、時代祭は明治に入ってからのお祭り)を仕切るようになり、また祇園などの花街を支え、いわば京都の庶民文化の担い手となっていったのではないかと思います。


と、今回は松尾大社紹介しました。次回は月読神社に行ってみます。





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