武蔵一宮 氷川神社

御祭神 

須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメのミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)



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ニノ鳥居です。ここから500mぐらい参道が延びています。




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本殿の入り口です。朱塗りの楼門は京都の下鴨神社を思い出しました。


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神楽殿です。


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本殿です。






御由緒

 今から2400有余年の昔、第五代孝昭天皇の御代三年四月の御創立で、聖武天皇の御代各国に一の宮の制を定められたときに、武蔵一の宮と称えられました。その後、天皇が京都から現在の東京の皇居にお移りになった際、武蔵国一の宮として、明治天皇が勅祭社と定められ、明治元年(1868年)10月28日には、天皇自らが氷川神社に行幸して、親祭を行われました。




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氷川神社の社殿配置です。



出雲族の東遷

 成務天皇の時代に、出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川神社を崇敬したと伝えられています。この成務天皇(131~190)、古事記では「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」と記述されています。建内宿禰といえば紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされていますが、この成務天皇のころにおそらく大量に渡来人が近畿に侵入、定住していった時代だと思われます。
 有史以来、民族が移動するとその地にいた民族はトコロテン方式に移動します。(ゲルマン民族や漢民族しかりですね)近畿大和にいた出雲族は天孫族の大和入りによって今の出雲地方の島根方向と愛知・信濃を通り、中仙道からここ武蔵国に移動していったものと思われます。またこの出雲族は製鉄文化も持っており、製鉄ができることから武器が制作できる民族として後には大和朝廷と敵対関係となっていきます。それが蝦夷と呼ばれた東北地方の民族だとおいらは思っています。また氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことだそうです。つまり氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるとともに、古代物部氏の居住地であったとも思われます。



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本殿横に摂社が2つあり、左側が門客人神社、右側が天津神社です。門客人神社には足摩乳命(アシナヅチノミコト)と手摩乳命(テナヅチノミコト)が祭られており、天津神社には少彦名命(スクナヒコナノミコト)が祭られています。


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門客人神社です。アラハバキの神様がお祭りしてあります。


門客人神社とアラハバキ

 おいらがなぜこの神社を注目したのかというと、実はこの神社の摂社に門客人神社(まろうどじんじゃと読む場合がありますが、まろうどとは「迷い人」という意味と「貴い人」という意味があります。)という神社が存在していたことです。ここには、足摩乳命(アシナヅチノミコト)と手摩乳命(テナヅチノミコト)を祭っています。おお、テナズチアシナズチといえば、諏訪にも同じ神様を祭る神社があり、方向は北を向いています。そうか、本宮山奥宮も北を向いた神社ですし、もともと出雲系の神様は北向きにお祭りするものなんでしょうね。すると出雲大社の方向が北向きの神社となっていながら、オオクニヌシが西向きに封印してあるのも何か大きな謎が隠れているとは思いますが、それはまた後日記述ということで、、、

 その氷川神社の門客人神社は古くは「荒脛巾社」と称していました。「荒脛巾」は「アラハバキ」と読みます。アラハバキとは東北地方に多く祭られてる神様です。記紀などの公式文書には記述がないため謎が多い神様ですが、ヤマト朝廷による征服により東北地方に逃れた民の神様といわれています。実はこのアラハバキの神様、おいらのすんでいる東三河の一の宮である砥鹿神社にも摂社としてお祭りしているのです。このアラハバキはおいらのブログ「山本勘助の真実 第2回 忘れ去られた民族」 にも触れているのですが、製鉄の神様だろうと思っています。



大湯祭とスサノオ、ニギハヤヒのお祭り

 ここ、氷川神社は12月10日より12日間大湯祭というお祭りがあり、酉の市として全国的に有名なお祭りがあります。大湯祭(だいとうさい)は、本来は簸王子社(ひのおうじしゃ)の祭りでした。『年中行事記』に「大湯」「火祭」の文字が見えますが、、伊弉諾尊・伊弉冊尊に火の神を祭りて、鎮火の加持をなさられしとき、探湯瓮を居(すえ)て、熱湯を試むる事をなしける。是湯立神楽のはじめなり。と由来に書かれています。ここで何か気がつきませんか?そう、奥三河に伝わる花祭りや遠山郷に伝わる霜月まつりも湯立神楽を奉納するお祭りなのです。このお祭りやアラハバキを信仰していたことからもこの地に出雲族の痕跡があることは確実であり、それは三河から諏訪、甲斐と移動し、ここ武蔵の大宮に移動していった歴史を裏付けるものだと思っています。



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昨日はお宮参りのお子様が多く、大事そうにわが子を抱える母親の顔が印象的でした。


そんな氷川神社

 そんな物部、製鉄、アラハバキと謎をもった氷川神社ですが、行ってみるとその大きさと荘厳さで圧倒されるでしょう。特に二の鳥居から伸びる参道は圧倒され、さすが武蔵の国の一の宮と呼ばれるだけはあると思います。この大宮氷川神社は富士山と筑波山を結んだ線そして、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)、三室の氷川女体神社が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶレイラインは有名です。また氷川神社、所沢山口の中氷川神社、奥多摩氷川の奥氷川神社がそれぞれ、本社・中社・奥社の関係で一直線に並んでいるということのようです。でも、実はこの大宮氷川神社は男体を祭る神社で、そこから先ほど出てきた南東のさいたま市緑区に氷川女体神社という女体をまつる神社があるのです。実は本来氷川神社は、この大宮氷川神社と氷川女体神社、あとその間にある中山神社が1セットであったといわれています。氷川女体神社は次回紹介させていただくとして、物部の神様にも男神と女神があったというのは非常に興味深いことだと思っています。天孫系神話のいざなぎといざなみも男女2神ですが、もしかしたら原始神話は同じところから始まっていて、天孫、物部とも元をたどると同じなのかもしれないと今回の氷川神社を訪れて感じました。



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レイライン、三つの神社が等間隔に並ぶ。