阿志神社 (愛知県田原市)


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御祭神 木花咲耶姫命



 阿志神社の最古の記録は「文徳実録」に「仁寿元年(851年)冬十月従五位下に授く」と記録されています。また「延喜式神明帳」にも「渥美郡一座阿志神社」とあり、郡内唯一の式内社となっています。この阿志神社の源は、大和朝廷に文化・技術をもたらした渡来人の阿知使主(あちのおみのかみ)を祖神とする阿知一族で、奈良県の明日香村にある於美阿志神社より分社したといわれています。


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 この阿知使主は、東漢氏(やまとのあやし)の祖先と言われていまして、4世紀ごろ百済から渡来した渡来人の一族です。彼らは百済系の製鉄技術を持っており、おそらく伊都国に入った彼らは隣国の奴国や不弥国にも浸透し、独自の祭神をあがめていたものと思われます。ここ、田原市の阿志神社は木花咲耶姫命と伊都国の流れを汲んでいますが、例えば吉備の国倉敷にある阿智神社には宗像三女神が祭神となって不弥国の流れとなっています。また長野県にある阿智神社は天八意思兼命(戸隠神社の中社の祭神、製鉄の神)が主祭神となっています。また飛鳥の於美阿志神社は表向きは阿智使主神夫妻二柱となっていますが、実は祖天目一箇神(製鉄の神)を祭っているという説もあります。これは私的な考えですが、渡来人といっても全員が渡来人ではなく、そういう技術を持った集団が何かの原因(おいらは倭国大乱とにらんでいますが、、)で東進し、全国各地に散らばっていったのではないかと思っています。


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 この神社は明治12年の拝殿建て替えの際に、瓦に「神代文字」が使われたそうですが、これは全国でも例を見ないものだそうです。この瓦は今でもこの神社で見られます。


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 この神代文字は、鎌倉時代の神道家の卜部兼方(うらべかねかた)が『釈日本紀』(1301年以前成立)の中で、父・兼文の説として「於和字者、其起可在神代歟。所謂此紀一書之説、陰陽二神生蛭児。天神以太占卜之。乃卜定時日而降之。無文字者、豈可成卜哉者。」と述べています。これは神代に占いがあったことから、文字がなければ占いはできないはずなので、漢字が入る前にも占い用の文字があったのではないかと考えたのです。

 この神代文字は対馬に伝わる阿比留文字が源になっているといわれています。しかも面白い説があり、ハングル文字はこの対馬の阿比留文字を参考に、さらに上下に文字を配列することにより阿比留文字の数の限界を進化させ、さらに複雑な多様性を持つ文字へと李朝の世宗皇帝が進化させたと考える説もあるぐらいです。


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 この神社より西に10km行ったところにある藤原古墳群です。この古墳群は6世紀から7世紀に築造された海を基盤にした豪族の古墳群で、数々の鉄器が出土しました。この人々が東漢氏に導かれた海の民族の末裔であり、製鉄をつかさどる阿曇民族だと思っています。このあたりは渥美(あつみ)という地名で、この地名も阿曇からきているといわれています。

 
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 この近くには東大寺の瓦を作った窯もあり、古くから大和朝廷の屋台骨であったのは言うまでもなく、ここからさらに中央構造線を北上し、諏訪、長野につながる人の流れがあったとも想像できます。もしかしたら穂高神社のお船祭りの起源は、この地を通過して行ったのかなと思うと太古の姿が想像できてとても楽しくなります。