うつぼ舟考


 皆さんは「うつぼ舟」という言葉を聞いたことがありますか?うつぼ舟とは窓も出入り口もない小船で"うつぼ舟"、もしくは"うつろ舟"と呼ばれています。これまでの豊橋の民話「おしいばち」「海に消えた皇子」 の乗っていた舟も、このような舟であったとか。これらに類した伝説は、日本海全域から黒竜江流域にも存在すると、民俗学者の宮本常一は語っていました。

 ではいつごろから日本でうつぼ舟というものが現れたのでしょう?一つのヒントが名古屋市博物館に展示されていたので紹介します。


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 これは名古屋市北区平出町で発見された平出町遺跡の船形木棺です。この船形木棺は、方形周溝墓と呼ばれる一辺10mほどの四角いお墓の埋葬施設として用いられており、お供え物の土器からおよそ今から2000年前に築かれたお墓だそうです。

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 この船形木棺の特徴としては一本のヒノキから作り出した丸木舟を真ん中で横に切ったような形で、舳先はとんがっており、反対側は別の板を当てていました。


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 では、なぜ船の形の棺を作って葬ったのでしょう?実はここには「舟葬」という考え方が当時あったのではないかと考えられています。この舟葬というのは、どこか遠いところ(死後の世界)があり、そこに行くのは船がよいという考えから来ていて、古くは中国、四川省成都で2500年前の巨大な船形木棺群が見つかっています。


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 この船棺葬は先秦時代の巴、蜀一帯で特有の埋葬方式で、出土した文物は巴蜀文化や周辺地域との交流を研究する上で非常に重要な価値があると、中国の学者は説明しているが、その習慣が日本にも存在したのは驚きです。


 一つの仮説として、このころの日本にはいってきた弥生人は海の民族ではなかったかと思うのです。これは宮本常一の遺作「日本文化の形成」で述べられていたことなのですが、その中で彼は弥生文化は海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした文化だと述べています。すると水田のほとりに住んでいた弥生人は船を家にして生活していたと考えていました。そしてその中である程度上位層の人が方形周溝墓に埋葬され、他の人は実際に川や海に死体を乗せ、流して葬っていたのではないかと考えています。


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マレーシアの船上生活者、今でもボルネオ島の一部の地域で見られる光景です。


 その習慣がいつしかうつぼ舟の伝説となって日本各地に広がっていったのではないかと考えています。それではうつぼ舟の伝説のいくつかのタイプを考えてみましょう。

1)女がうつぼ舟にのって流される

 大分県の佐伯市蒲江に伝わるお話で、うつろ船が漁村に流れ着き、なかから美しい着物を着た3人の女性がいました。追っ手に追われているという3人はかくまってくださいと頼むのですが、漁師の年寄りの考えに従って、3人の女たちと船箱を沖にまた流してしまうことにした。しかし、女たちは助けてくれと懇願するのですが、7人の漁師たちはこの3人を殺してしまうのです。そしてこの3人を舟もろとも焼いてしまって、砂をかぶせて跡形もないようにしたそうです。その後何年かたったあるとき、7人の漁師のうちひとりがいつの間にか両目が赤くただれるようになり、ついに目が見えなくなりました。そして村中にこの目の病が広がっていき、だれと言うこともなく、あの浜で真だ3人の女のたたりだということになったそうです。

 それが、大分県佐伯市蒲江にある姫松の由来だそうです。


2)貴人がうつほ舟にのってくる

 東三河の「おしいばち」「海に消えた皇子」 の伝説。

 また、和歌山県淡島神社の由来だと、天照大神の六女・淡島様は、16歳で住吉明神の后になるのですが、婦人病にかかってしまったため堺の港からうつほ舟で流されたそうです。そして和歌山の淡島に着くとさっそく淡島様は巻物にひな形を刻んで遊んだそうです。これがひな祭りの始まりだそうです。そういえば少彦名命もオオクニヌシから分かれる際に舟に乗っていった話もきっと同様ですよね。


3)化人(けにん)がうつほ舟に乗って去る。

 秦の河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古の5代の天皇と上宮太子(聖徳太子)に仕え、猿楽の芸を子孫に伝えた後、うつほ舟に乗り、難波の浦から風にまかせて西海に去りました。その後船は播磨の国坂越(しゃくし)の浦に漂着したそうです。その時、河勝の姿は通常の人間とは異なっており、いろいろな奇瑞があったので土地の人は彼を神としてあがめたそうです。


4)うつろ舟の蛮女

 『兎園小説』に『虚舟の蛮女』との題で図版とともに収録され今に知られているほか、兎園会会員だった国学者・屋代弘賢の『弘賢随筆』にも図版がある。兎園小説とは滝沢馬琴、山崎美成らが文政八年に発足させた「兎園会(とえんかい)」で披露された話を集めたもので、当時の珍しい事件やうわさ話などが収録されています。

その話のあらすじは

 常盤国のはらやどり浜というところに丸みのある形の舟が漂着します。その舟は上部がガラスと障子、底部は金属の筋を貼り付けたものでありました。舟の中からは赤い髪の異様な姿の女性が出てくるのですが、彼女は異国の南蛮の人間らしく、
ことばがまったく通じません。そこで土地の古老が「きっと刑罰により異国から流されてきたんだろう」と推測してくれたのだが、このことを幕府に知らせるのもかなり大事になるので、そのまままた沖に出してしまったとのことです。

その南蛮の娘と乗ってきた船がこれ


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なんとUFOみたいじゃありませんか、、、まさにオーパーツ。柳田國男もうつぼ舟に関する論文を発表しており、彼は「疑うこともなく作り話である」と断定してます。でもムーやUFOを信じていらっしゃる方々はこれこそエイリアンとの遭遇話と主張されていますが真実は、、、、


と、日本にはたくさんのうつろ船(うつぼ舟)の伝説があります。きっとこれらは古の海人族の伝承や習慣が今民話として残っていると思っています。桃太郎の桃やギリシャの箱舟神話も同様の話だと思っています。このように私たちの周りにもうつろ船の伝説はあると思うので、もしほかの伝説等知っている方が居ましたら是非教えてください。