君が代解析パート4 糸島 君が代 巨大な鏡の存在


 前回の話で、伊都国(現在の福岡県糸島市)の平原遺跡が、埋蔵してあった鏡や装飾品から女王の可能性が高く、日本で卑弥呼の墓に一番近い存在なのではないかというお話をしました。しかし、何らかの形で伊都国の為政者はそこを放棄して、移動していった痕跡があります。それは5世紀以降の遺跡があまり発掘されていないこと、日本書紀や古事記の記述にある神武東征と関係し、伊都国の為政者は東に移動していった可能性があるのです。そこで最初に移動していった場所が福岡市西区の山門地区、そう、ここが最初の「ヤマト」の発祥の地だったのです。


 その後、玄界灘にあった阿曇族の奴国、宗像の不弥国を吸収し連合国家として巨大化していきます。その中心に居たのが、僕は壱岐のシャーマンであった卜部氏だと思っています。彼らは九州の太陽信仰とその当時最先端だった陰陽五行説を駆使し、日蝕や数々の天体現象を予報し、カリスマ性を高めていったと思っています。

 しかし、そんな九州で一大事件が起こりました。それが磐井の乱です。日本書紀の記述では、527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけな)率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された反乱または王権間の戦いです。ところが今までの6世紀の近畿の遺跡を考えると、まだこの頃には近畿には朝鮮半島に何万人という兵力を送るだけの軍事力はなかったと思いますし、むしろこの磐井の乱はこの頃には倭国としてまとまりつつあった南部朝鮮と北部九州連合国家、つまりの内乱だったと思っています。


こんどう史科医院の裏ブログ


 この辺の細かい記述は後日触れるとして、この内乱により倭国は2分されました。そして負けた磐井側の為政者たちは、北部九州の地を離れ、近畿や中部地方に落ち延びていったのです。そんな地名が今でも残っていて、例えば和歌山県には伊都郡という地名があります。おそらくここには第二の伊都国があり、その中には卜部氏を基にする中臣氏もいたと思われます。当時の近畿の氏族から見れば、陰陽五行と漢字を使った伊都の人々は優れた先進性をもった氏族であり、その技術、習慣等を踏襲しようとする氏族が現れました。それが葛城氏だと思っています。また中部地方には、長野県の安曇野に落ち延びた氏族もいました。それが八面大王の伝説になったといわれております。(消された異神たち 第5回 安曇野八面大王 参照)


 こうして6世紀に移動していった、北部九州の為政者たちは百済からの技術力、先進性で近畿の氏族に徐々に受け入れられていったのですが、本来そこの近畿を牛耳っていたのが蘇我・斑鳩王朝の新羅派の蘇我氏でした。こうして乙巳の変壬申の乱が起こっていったのだと思っています。


 さて、こうして権力を手中にいれた卜部→中臣→藤原氏ですが、このまま当時はまだ唐や新羅が新しくできた大和朝廷に攻め込んでくるとも限りませんでした。そこで古い都(大宰府)は放棄し、九州王朝が復活できないように宇佐神宮を祀りました。しかも、宇佐神宮では物足りず、さらに土佐神宮、熊野本宮神社と設置し、3つの神社で完全に封印しようと試みました。


こんどう史科医院の裏ブログ

 また自分と天皇の出生が倭国とならないように歴史の改竄を指示し、天皇を万世一系、もともと昔から近畿にいたことにするのと、自分の苗字を変え、倭国との関連を断ち切りました。同時にそのころ万一近畿が唐・新羅連合軍に攻められたときの遷都候補としての土地探しもしていました。そこで候補にあがったのが愛知県の東三河地方(穂の国)と長野県の戸隠地方の鬼無里だと思っております。

 ともかく、まず1つ目に壬申の乱以降の大和朝廷が行ったことは、これまであった歴史の改竄にあったのです。こうして倭国を封印した大和朝廷は次に唐を封印にかかります。それが三種の神器の分散にあったと僕はにらんでいます。

こんどう史科医院の裏ブログ

そのころ、(8世紀)の唐の都長安の緯度は北緯34度16分となっていて、平城京の北緯34度41分とほとんどかわりません。つまり唐の都は実際に近畿地方の西にあったので、その都市の衰退を図る呪術として日の光を反射する鏡を東のほうに置いたと思われます。

 ではどこに鏡を置いたのでしょうか?一番有名なものは伊勢神宮の八咫鏡です。もともと伊勢は斎宮は今よりも北の三重県明和町斎宮にあり、ここは北緯34度32分と緯度も9分しか変わらなくほぼ長安の真東の海の果てとも言っていい場所なのです。そこから上ってくる朝日を封殺することによって、唐の国の衰弱を図り、同時にそのラインにならないように平城京に遷都したのではないでしょうか。


 その後、唐に遣唐使を送り、攻めこむ意志のないことがわかると、いよいよ大和朝廷は唐の封じ込めを図ろうとしていきます。それは近畿地方に大きな鏡を作ることだったのです。

 さきほど和歌山県の伊都郡に移住してきた伊都国の支配者層と技術者集団は徐々に近畿に入り込み、やがては近畿に天皇中心の国家体制を築き上げました。その後、一躍時代のときの人となった藤原氏は、唐の国の封じ込めの仕上げとして伊都国由来の鏡を各神社にお祭りしたのです。

 それは「伊」の字の関連のある神社、「伊」とはもともと神の意志を伝える聖職者。治める人という意味があるそうです。そんな伊の名前の付く神社と三種の神器のゆかりのある場所を、近畿東海地方で探してみると


伊勢神宮   三重県伊勢市にある神社の本宗。八咫鏡を収めている。

熱田神宮   名古屋市熱田区にある神社で三種の神器の一つ草薙剣

         (くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としてまつっている。

伊奈波神社  岐阜県岐阜市にある美濃の国の三宮。

伊和神社   兵庫県宍粟市にある播磨の国の一宮。
伊弉諾神宮  兵庫県淡路市多賀にある淡路国の一宮。

伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市にある紀伊の国一宮。

京都御所   平安京の中心、八尺瓊勾玉が祀られているという。


これらの神社を近畿地方の地図に記入していくと、ある法則性に気が付くと思います。


こんどう史科医院の裏ブログ
実はこれらの「伊」のつく神社は、京都御所を中心に半径105kmの円形の鏡が浮かび上がるのです。そう、最後に唐を封殺する怨念は実は日本列島の真ん中、近畿地方に巨大な鏡を置くことだったと思います。


なんとなくこれで東に鏡を置き、三種の神器で唐の国を封印するという古代の呪術が見えてきたと思います。さらに追記すると先ほどの京都御所・熱田ラインを延長すると富士山を通り、東のかなめ鹿島神宮へと続きます。このように各神社はかなりその当時の地図から綿密に考え出されて配置していったものだと改めて再確認しました。それとともにまだいったことのない神社がまだまだあるんだなーと実感し、また行って来たらご報告いたします。