君が代解析パート3 糸島 君が代 卑弥呼の墓


 前回までに、天孫降臨伝説、神武東征伝説がここ、糸島の当時伊都国と呼ばれていた小国に伝わる伝説であることを紹介していきました。そこから類推すると現在の前原一帯が葦原中国で、そこに降臨してきたのは、前漢時代以降の中国からの武官(一大率が官位名)であり、彼らは本土に戻ることなく次第にこの伊都国の住人になっていったと考えています。もともとここには大陸系の(中国南方部の呉の国)避難民が春秋戦国時代より流入しており、言葉もある程度通じるところがあったと想像しています。

 その後、中国は漢王朝が滅亡し、魏・呉・蜀の三国時代に突入します。そこで一番の覇を唱えた魏がおそらく一大率を伊都国に送り内情を調べさせたと思われます。なぜなら当時魏は呉と長い戦争状態にあり、そのころ呉は朝鮮半島に外交使節を送り魏を南北で挟撃しようと思っていました。呉はもともと同属である倭と軍事的につながりがあったと思いますので、魏としてはどちらの味方なのか判断したかったのではないでしょうか。

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上の図はその当時(三世紀末)の北部九州の情勢です。近年DNA鑑定が進み、中国江蘇省徐州近郊の人骨と大宰府一帯で発掘された弥生人の人骨とが一部塩基配列が一致し同族であることが明らかになったそうです。そうするとおそらく倭国自体が、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちが海路、亡命して漂着した所であるということが、科学的に証明されたと思っています。


 その漂着した部族が安曇族(阿曇族)であり、海彦山彦の海彦だと思っています。

一方山彦はというと、糸島地区でいえば、雷山や可也山を中心に神奈備、磐座信仰を行っていた出雲系部族で、神話は糸島地区の安曇族は山に住んでいた出雲系部族に従属していった様子だと思っています。


 ホノニニギノミコトとコノハナノサクヤビメの子供達。兄・海彦(ホデリノミコト)の嫌がらせで海に紛失した釣針を探しにいった山彦(ホオリノミコト)。海の国で出会ったトヨタマビメと結ばれ、地上に戻って後、兄を降伏させる。このトヨタマビメが出産する所を覗いたホオリノミコトはビックリ。巨大な鰐だったのだ。姫はショックで海の国に帰るが、産まれた子が心配だった為、妹のタマヨリ姫をお守りとして送る。この産まれた子がウガヤフキアエズノミコトで、彼とタマヨリ姫が結ばれて産まれた4人の子供の内の一人が、後の神武天皇である。



 ここから神代の時代のなぞ解きを考えると、


天孫降臨 糸島の船越地区 (桜谷神社の苔牟須売神)

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ニニギとコノハナサクヤヒメの結婚 糸島の三雲地区 (細石神社)

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海彦山彦の山彦  巌≒いわら 糸島の井原山、雷山地区 (雷山神籠石)

玉依姫の伝説   志登神社(方向が可也山を向いている)

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神武東征 可也山を本拠地とした神武が日向峠を越えて福岡市西区の山門地区に  

       侵入

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領土拡大により志賀島まで進出 千代の松原 

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残る糸島の謎の史跡たち(まだ行ってないところが多いので今後の宿題です)

 

 すると、残るは魏志倭人伝に出てくる邪馬壹国(やまいこくと読んでください)と女王卑弥呼の存在ですね。邪馬壹国と女王卑弥呼の存在は依然謎に包まれています。しかし、一つのカギが伊都国にあると思っています。なぜなら伊都国は意識的に魏志倭人伝に国力の矮小化を記述させている節があるのです。 伊都国、奴国、不弥国などは、ほぼ九州北部に実在した倭連合国の一国家であると思います。しかし例えば出土した鏡の数を見てみてください。



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 伊都国の出土した鏡の数は、その他の国をみても群を抜いてすごい数となっている。ここがたかが1000戸の集落とは思えません。




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すいません、写真がうまく写っていなくて、、、、これは日本全国の弥生後期の遺跡の面積を比較しているのですが、三雲・井原遺跡がどれだけ大きいのかお分かりいただけると思います。


 上の写真より、伊都国が当時(弥生末期から古墳時代)北九州でどのぐらいの国力を持っていたのか遺跡の発見でわかると思います。ではなぜ伊都国の大きさを魏志倭人伝で矮小化させたのでしょうか?おそらく陳寿に届いた倭人の報告書を書いた役人が伊都国にいたからではないかと想像します。なぜなら、伊都国は魏と敵対する呉の国とも民族的につながっており、強国だと認識され魏に攻め込まれでもしたらいちころに滅びてしまうのは、伊都国自身が知っていたものと思います。

 だから、ちっちゃい小国の伊都国は遠い遠いはるかな邪馬壹国の女王卑弥呼に支配されているんですよ、あんまり遠いからこっちに来ないでくださいね。と記述させたのではないかと考えています。


 後は卑弥呼が実在したのかどうかですよね。実は僕はここまで伊都国による魏志倭人伝のねつ造の関与を指摘するといないほうが可能性が高いのかな?とちょっと思ったりもしたのですが、ちょっと面白い仮説を考えてみました。これは神社の封印説というものです。実は日本の神社は神様を拝むタイプのものと、滅ぼしてしまったもののたたりを恐れ封印するための神社に分かれると思っています。前者は奈良の大神神社や京都の下賀茂神社、後者は出雲大社、鹿島神宮、伊勢神宮や宇佐神宮を指します。で、どのようにして封印するかというと、当時は太陽信仰が盛んで、太陽の上ってくる東は魂の復活を指していたと思います。

 

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 つまり伊都国から出発した九州山門王朝は、何らかの理由でその当時の伊都国の女王卑弥呼を誅殺したのではないでしょうか、そして卑弥呼の復活を恐れて大宰府を築いた。その後大和に王朝が移り、卑弥呼と大宰府の復活を恐れた大和朝廷が宇佐神宮を宇佐に作り封印したものと思われる。しかもそれだけでなく同じラインにある熊野神宮の本宮、新宮もその封印神社だと思われる。それぐらい卑弥呼をなぜ人々は恐れたのでしょうか?

 これは一つは日蝕による民衆の恐怖ともう一つはその後蔓延した天然痘のためだと思っています。この背景から考えても国内最大級の数と大きさの鏡が出土した平原遺跡が卑弥呼の墓の第1候補であることは否定できないと思います。また卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐したといわれていますが、おそらくその弟が実際の政治を動かしていたものと思います。そして中国からの使節団が来たとき、伊都国自体の存在を隠し、王たる男性を補佐役として隠し、女王が治めるところとして報告させたのではないかと思っています。つまり、卑弥呼はいたけど邪馬壹国はなかったのではないか、それが僕の仮説です。



【平原遺跡】

国内最大級の鏡が発掘された遺跡です。



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ここは立派な公園になっています。

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ここから鏡が40枚ほど見つかったそうです。


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中には超大型内行花文鏡(直径46.5cm)が割られずに存在していました。そういえば三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)の「八咫」とは、 咫(あた)は円周の単位で、0.8 尺です。径 1 尺の円の円周を 4 咫としていました。したがって「八咫鏡」は直径 2 尺(46cm 前後)の円鏡を意味するそうです。おお、これもいわゆる八咫鏡じゃないですかー!!



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ここの遺跡の発掘者原田大六氏によると、その他の副葬品は多くが、勾玉や管玉などの装飾品であり、武器類が少ないため、埋葬された人物は「女性」であると考えられています。彼によるとここに葬られた人は「玉依姫」とされていますが、僕は今日本でもっとも卑弥呼の墓に近いものだと思っています。


この大女王を葬った木棺は、東南方の日向(ひなた)峠の方角に正確に合わせ、
股間をそちらに向けてあった。こうなると、日向峠から昇る太陽の光芒は彼女の股間に射しこむことになる。太陽祭祀を行った大女王が太陽と性的に結ばれているこの事実を解釈すれば、彼女こそが太陽の妻であり、日本古典のあの大日靈貴(おおひるめのむち)であったことになる。

(原田大六著 『日本古墳文化』 三一書房)

あえて彼はあえて卑弥呼とは言わなかったが埋葬のされ方を見ると日向子(ひむこ)となり、大日靈貴(おおひるめのむち)はアマテラスの別名です。つまり、伊都の女王が、後に三重県の志摩(伊都の安曇一族と同族が住んでいた土地)の近くに、伊都の勢(勢い)という意味の伊勢として鏡を収めたのではないかと思っています。


その辺の三種の神器と伊都との関係は次回ということで

(次回が君が代解析の最終回です)