君が代解析パート2 糸島 君が代 古今和歌集


 前回、君が代と糸島の関係を探りながら、天孫降臨が宮崎の日向ではなく、福岡県糸島市と福岡市の限られた地域の話であることまで説明しました。日本書紀の記述等ですと、ニニギは筑紫(今の福岡県)の日向とかいてあり、「ひゅうが」と読むのか「ひなた」と読むのかまでは書いてないので、どちらにも取れる状況だったのです。さて、今回は残りの「巌となりて、苔のむすまで」までを検討し、解読して行こうと思っています。


巌(いわお)

 古田武彦によると、いわおは前原市の三雲の南に「井原」があり、「いわら」と発
音するのだそうです。ただこれは井原遺跡ではなく、その語源を考えてみると、岩羅となり岩のとがったところを指す言葉だと思います。そうすると井原山かその隣にある雷山が候補になり、実際雷山には雷山神籠石といった古代の石積が残っています。この雷山神籠石ですが、生活域や食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かないとのことで、城跡ではなく祭祀遺跡との関係が指摘されています。つまりここは伊都国の神奈備だと思っています。本当は時間があればここまで行ってみたいと思っていましたが、あいにく僕が行った当日は福岡で大雪が降り、標高の高いところにはまだ積雪が残っている状態だったのであきらめました。


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はるかに見える山々、左の高い山が「井原山」、右の少し低い山が「雷山」


苔のむすまで

 この苔のむすまでの苔牟須売神(コケムスメ)を祭る桜谷神社は、福岡県糸島市船越桜谷にある神社で、現在は若宮神社と呼ばれています。祭神は「苔牟須売神(コケムスメ)」と「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の二柱。
なお、祭神の苔牟須売神とは地元では「盤長姫命(イワナガヒメ
)」の事として伝承されていいます。実際、この神社を訪れるとまずそのある場所に驚くと思います。船越の部落に入り、カキ焼きの案内の看板に誘われながらまっすぐ行くと、右に綿積神社に行く道に別れ、まっすぐ行くと若宮神社、引津神社に分かれる道に到着します。

その後若宮神社と書いてある細道を歩き、民家の横を抜け畑の横を歩くと桜谷神社が待っています。この神社、本殿は参道から90度右に向いており、さらにその右には(立派な?)陰陽石が祭られていました。古田氏によるとこれは古く縄文信仰を放棄した表れだと言っています。


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若宮神社を示す看板、これがなければ絶対にたどり着けなかった。

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最初の登り口はこんな感じ、ほとんど側溝のようなところで信じられなかった。
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畑と草むらとの間のあぜ道のようなところを上る。


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側溝がなくなり


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ようやく神社が見えてきます。(ほんとこのときはうれしかった)


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なぜか鳥居は3つありました。
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本殿はこんな感じです。非常にこじんまりした感じです。


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本殿横にある(立派な)陰陽石。諏訪のミシャグチ信仰を思い出しました。そうするとやはりここは出雲系信仰の神社だったのですね。


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左の崖が何か不規則な石積のように見えました。もしかしたら神籠石の一種かもしれません。


古今和歌集と君が代】

実は君が代そっくりの歌が古今和歌集に収録されています。それは古今和歌集巻第七、賀歌(がのうた)より


    題知らず                  読人知らず


343  わが君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで


と、「君が代」ではなく「わが君」となっています。鎌倉時代の和漢朗詠集では「わが君」になっていますが、これ以降の歌集には「君が代」となっています。つまり君が代となったのは鎌倉以降で、そのときの流行を取り入れただけなのです。ではこのわが君とは一体誰なのでしょうか?

 古田武彦らによると、この歌の基は福岡県の金印の見つかった志賀島の志賀海神社で山誉め祭りの神楽として歌われていたものを紀貫之らが古今和歌集に収録した可能性があるそうです。しかもそこに出てくるのは「阿曇の君」だそうです。この阿曇とはおそらく古代日本を代表する海神族で、この志賀島を中心として全国に移住した氏族です。長野県の安曇野や愛知県の渥美、静岡県の熱海もその移住地と呼ばれています。

 ではなぜここで「わが君」が「阿曇の君」と言わず紀貫之らは読人知らずとしたのでしょうか?実はこれには白村江の戦い(663)が関係しているのではないかと思っています。白村江の戦いは教科書的には日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いと書いてありますが、実際には九州王朝・百済をあわせた倭国と唐・新羅連合軍の戦いと解釈するとわかりやすくなると思います。つまり現朝廷の醍醐天皇から見れば、倭国は朝敵なのです。そこで紀貫之は一般的に民衆に知られた歌だったのですがあえて読人知らずとしたのではないでしょうか?


つまり逆ルートで考えよう

 志賀島の神楽となっている「わが君」の歌、しかもこの歌は「山誉め祭り」の歌だそうではありませんか。この「山誉め」とは一体なんだと思います?だって海の民族だった阿曇氏が山を誉めるのはなんだか不思議じゃありませんか。でもこれも日本書紀がヒントになっています。そう海彦山彦の話です。志賀島の神楽は実は「わが君」の所在を歌に盛り込んだものだと思っています。ただ、鍵は歌の順が逆なのです。

そんなわけで続きは次回のお楽しみ。



参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)


禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな