君が代解析パート1  糸島と君が代と天孫降臨


 日本の国歌として認識されている「君が代」、実はこれには隠されたコードがあるのです。今回は君が代を読み解き、九州に1大王朝があったことを探りながら旅をしてきたので、それをご報告します


君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
(いわお)となりて
(こけ)のむすまで


 誰もが知っている日本の国歌、君が代は1880年(明治13年)法律として文章化はされませんでしたが、時の政府により国歌として採用されました。この歌詞は10世紀に編纂された「古今和歌集」に詠み人知らずとして短歌として載っていました。しかし当時の歌詞は、初句を「君が代」と詠まず「わが君は」と詠んでいる点で、完全に今の歌詞と一致しないことから何かなぞめいた歌となっています。


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 そこでこのなぞを解きほぐしていこうと思い、今回は九州の糸島半島一帯をめぐってきました。糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の中心近くに細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社(現在は若宮神社)には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っているのです。(古田武彦説)



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しかし、この説もちょっと合点のいかないところがあり、まず井原がいわおと言っているのですが、地元の人に聞いたら井原は「いばる」と読むそうで発音がかなり違ってきます。もともと「いわお」は「巌」と書き、岩などのを指すのですが、僕は井原の南西にある雷山の中腹にあった雷山神籠石をいわおだと思っています。これは一種の城塞か磐座の後ではないかとは思っていますが、あまりに遠いことと山登りになるのですが、当日はあいにくの大雪の後だったので、次回の楽しみにとっておいてあります。


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糸島の観光マップ、この地図ではなかなかたどり着けないので、今回はタクシーの運転手さんにご協力いただいております。


【千代の松原】

 昔から博多湾の一帯の浜は松原となっており、福岡市の東公園はその名残の一部だということです。博多から地下鉄にのって筑前前原に向かうと、下山門(しもやまと)駅を過ぎたあたりで生の松原が広がっています。おそらくここは昔は壱岐の松原と呼ばれていたのではないかと思います。

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【細石神社】

 細石(さざれいし)神社(旧名 佐々禮石)。 伊都国の中心部で、祭神は磐長姫(イワナガヒメ)と木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ、日向一代目の「彦火瓊々杵尊(日子番ノニニギ命)」の妃)の姉妹二柱。


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細石神社(〒819-1583 福岡県糸島市三雲432)
伊都国の中心にあり、以前は神田も多く大社でしたが、太閤検地により田畑を召し上げられ衰退したと伝えられています。


 古事記の記述より

 天から[日向に]降りてきたニニギ(神武天皇の曾祖父)は、コノハナサクヤビメという美しい娘に出会い、求婚する。彼女の父、オホヤマツミは喜んで、コノハナサクヤビメと、姉のイハナガヒメの二人を妻として差し出した。しかしニニギは容姿の醜いイハナガヒメは送り返し、コノハナサクヤビメだけを妻とした。オホヤマツミは深く恥じ入り、「イハナガヒメを妻とされれば、天つ神の御子の命は岩のように永遠で揺らがないものになり、コノハナサクヤビメを妻とされれば、木の花が咲き栄えるように繁栄されますようにと祈願いたしましたのに、このようにイハナガヒメだけをお返しになり、コノハナサクヤビメだけをお留めになりましたから、天つ神の御子の命は、木の花のように儚いものになってしまうでしょう」と申し送った。そういうわけで、今に至るまで天皇の寿命は長くはなくなってしまった。

 

 金枝篇の著者J・フレーザーによると、この神話は東南アジアに見られるバナナ型神話の一種といわれており、バナナ型神話とは、神が人間に石とバナナを選ばせ、バナナをとった人間は永遠の命を放棄し、バナナのように腐りやすく死んでしまう体になったといわれています。この話と古事記の類似性は、石が磐(イワ)で、バナナが花に書き換えられているところです。

 また、コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑いました。そして疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、本当の子なら何があっても無事に産めるはずと、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産みました。

 この三柱のうち、ホデリが海幸彦、ホオリが山幸彦であり、ホオリの孫が神武天皇となります。


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 この細石神社には南向きに3つの摂社があり、それぞれが上のような形をしています。真ん中の摂社だけ異様な雲のような石が乗っているのですが、僕が考えるに真ん中の摂社は雲仙ではないかと思っています。そして一番上がホデリで阿蘇、一番下がホオリの霧島ではないかと思っています。どれも九州を代表する活火山で、特に雲仙には木花咲耶姫神社があり、男女の性の巨大なシンボルが鎮座しています。

 
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 また、細石神社の後ろには写真のような三雲南小路遺跡があり、解説には弥生時代中期末(約2000年前)の伊都国王の墓で墓の周囲に3~4m、深さ0.5~0.7mの溝で 東西 32m、南北 31mの方形区域を設けた国内最大級の弥生王墓と書いてありました。ここからは墳墓の中央には2基の超特大の合わせ口甕棺(カメカン(全長2.5m程)があって、1号甕棺から 35面、 2号甕棺から 22面 合わせて 57面にのぼる前漢鏡、青銅製武器、金銅製四葉座飾り金具、ガラス製壁、装身具等豪華な副葬品が出土しました。



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左は三雲南小路遺跡から発掘された金銅四葉座飾金具、これは中国の皇帝クラスが王侯クラスの死に対して贈る特別な品だそうです。纏向の桃の種なんか比にならないすごい発見のものなのに3連休の日曜日誰も見に来ていないなんて、、、、(涙)

 一説によると細石神社はこの三雲南小路遺跡をまつる拝殿であり、この遺跡に埋葬されていたのは、中国とのつながりが深い伊都国の王様で、男女の、夫婦の墓と考えられる事から導いて、この「王墓」の主は「彦火瓊々杵尊(ニニギ)と木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)」となるそうです。


 また、魏志倭人伝には伊都国に一大率という駐留武官を派遣しており北部九州一帯を統治していた。ではこんな大きな国家たる伊都国を魏志倭人伝では2万戸のお隣の奴国(博多周辺)に比べ1千戸しか集落がないと書かれていたのでしょうか?

 ここから考えられる仮説は、伊都国とは前漢の時代からこの地に中国から派遣されてきた役人が定住し、そして1千戸の軍隊を駐屯させていた。(昔は屯田制だったので兵士=農民だった。)一方、奴国の2万戸や邪馬壹国の7万戸は実際の農家の数でおそらく兵隊ではなかったと思っています。すると当然派遣された役人の中で地元の農民と結婚しこの地に定住、王族となったものが現れていった。これがニニギではないかと思っています。


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細石神社の東にある左が高祖山(高千穂?)で、怡土城(いとじょう)は高祖山(たかすやま)西斜面に築かれた奈良時代の山城。築城は大宰府の長官であった吉備真備(きびのまきび)。山裾に南北2kmの土塁があり土塁の外側には約15mの堀があったそうです。右上の写真が日向峠です。

 すると面白いことに、細石神社の東に日向峠(ひなたとうげ)という峠があり、これが日向の高千穂とすると、その隣には山門(やまと)という地名が存在しています。そうすると神武東征は、伊都国を出発した神武天皇が、奴国の土地であった山門を侵略した話としてつながっていく。ここから藤原の不比等君がこの地にあった伝説を新都大和に持ってきて建国神話として日本書紀、古事記に記入していったのではないでしょうか。だって、藤原不比等の旧姓、中臣は壱岐の島の神官の苗字であり、もともと自分の出生を隠し、九州王朝と大和朝廷のつながりを隠し、新たな国として平城京を作っていったのではないですかねー。だから中臣の姓も捨てて藤原なんて苗字に変えていますしね、、、、さらにいうと山門の南に壱岐という地もあり、だんだんと確信の部分に近づいて行ってますね。


では次回は君が代解析パート2 邪馬壹国はほんとに九州?をお送りします。

なお、あくまでもこれは仮説なので、文献、資料等で明らかにおかしい箇所等ありましたらご指摘いただけると幸いです。