600ページを超える読書は久しぶりであった.

日本語のタイトルは「音楽の科学」であるが,訳出には少し悩んだと思われる."Music Instinct"なので,あるいは「音楽の本能」というのが直訳に近い.しかし日本語の「本能」というのは生理的欲求に近い意味合いがあり,かといって「才能」と訳してしまうと英語でのtalentに近くなってしまう.本書は,「人に音楽を音楽として認識できる本能があるように見えるのはなぜか」という問に対する検証可能な実験を網羅した巨大レビューである.

網羅した実験の殆どは査読のある一般的な論文で,最低でも実験心理学的な手法がとられたもののみを取り上げている.fMRIの知見も非常に豊富である.知らなかっただけに非常に面白かった.

音楽を構成するものは音程・音色・リズムの3つである.しかし単語上は自明でありながらも,音程・音色・リズム,それぞれがどのように脳で解釈されるのか,またそれが脳内で音楽として再構成されるのはどのようなメカニズムなのか,非常にわかりにくい.本書はまずこの3つの音楽構成要素が実態としてどういうものなのかを様々な実験をレビューすることによりボトムアップしていく.最終的にはその構成要素が統合され脳内で音楽が形成され,感情を呼び起こすまでにどのような過程が関わりうるのかを述べていく.

多くの有意義な書籍がそうであるように,序文にはこの著作のすべてが端的に語られている.

「音楽とは一体,どういう現象なのか,私たちに対し,どういう作用をもたらすのか,という問に対しては,過去に大勢の人が答えを提示してきた.だが,この問いがあまりに難しくとらえどころのないものであるため,どの答えにも簡単に欠陥を見つけることができる」

これがこの著作の全てである.答えはない.しかしこの結論をもたらすために網羅した知見はどれも興味深く,膨大であるにもかかわらず飽きない.

音程・音色・リズムのうち,音程とリズムは音楽家自身によってもかなり研究されている.特に音程の項目は非常に詳細な研究成果が述べられている.協和・不協和がかなり相対的であること,つまり協和・不協和がそのまま快・不快に結びつかないこと,状況・時代・曲のどこに現れるかによって,非常に協和しているとされる5度ですら不快に感じることなどが慎重に述べられている.

特に前世紀にその意義を終えた無調音楽に対する言及は厳しい.そもそも調性という存在を前提にしない限り無調音楽という概念は存在しないという時点で,無調音楽は調性音楽に依存している.これだけでも論理的に無調音楽の価値は非常に微妙になってくるわけだが,唯一「反調性」以外のルールで存在するために生まれた十二音技法(セリエル)も,内部に生理学的欠陥を抱えていることが明らかにされる.

音程・協和・不協和の大脳による解釈を踏まえながらセリエルの根本的な欠陥を実験結果により暴いていく過程は非常にスリリングである.かといってセリエルが無価値だとか,シェーンベルクの音楽家としての能力に疑問を呈することはない.シェーンベルクがセリエルを開発せざるを得なかった事情についても抜かりなく述べている.

また「音色」という音楽家自身によっても殆ど研究されていない分野へも,可能な限りの言及がある.実は20世紀のロックあるいはパンクというのはそのメッセージ性はさておき,音楽的には音色の追求であったのではないかという新鮮な指摘がなされる.例示としてはザ・ビートルズ,レッド・ツェッペリン,セックス・ピストルズ,ザ・フー,ピンク・フロイドなどがあげられるが,気付いてみればこれらは全て英国のバンドである.直近で非常に話題になったロンドンオリンピックの閉会式にも通じるものがあるが,実は20世紀音楽は英国で最も強烈に花開いたというべきかもしれない.

音程・音色・リズムの組み合わせがなぜ感興をもたらすのか,という最終段階では非常に議論が込み入っている.その前段までで人は音楽を聞くときは,実はかなり保守的なルールに基づく「予測」をしているとういことが明らかにされる.どうやらその予測を裏切ることにより,音楽的感興がもたらされそうだということがひとつの可能性として挙げられるが,それは可能性かあるいは何種類かある解答の一つでしかないことも示されている.

これは西洋古典音楽(日本語でクラシックと呼ばれるジャンル)の本ではない.純粋に音楽の本である.通読しなくても面白い.ただもしこの著作のハイライトを比較的深く理解したいのであれば,音程・音階・調性の知識はあったほうがよりスリリングとは思える.また知識がなくとも1000時間以上の楽器演奏経験があれば,自ずとスリリングになる.

音程・調性についてかじりたいのであれば,池辺晋一郎著「面白く学ぶ楽典」がオススメ.一度絶版になったように見えたが,今は時間はかかるがアマゾンで手に入る.



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