参考文献:不便さと教育(内田樹研究室)

 教育を効率という観点から考えるのは難しい。というのは、効率というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、教育がそのアウトカムを計測するときの時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないからである。というのは詭弁で,「1時間以内の」とか「一学期以内の」とか「卒業時までの」とか)教育のアウトカムを考量することはできる.けれども、そこではじき出された数値は、教育を受ける本人にとっても教育機関にとっても、実は何の意味も持っていないと思いたい。 たしかに教育機関の質評価に際して、「単位時間内にどれほどの教育成果を上げたか」を見るということはやろうと思えば可能である。例えば、「今年の大学入試で東大に何人合格したか」とか「TOEICの全校平均スコアが何点」ということは数値的に示すことができる。だが、それをある教育機関の教育の質の指標だと見なすことはできない。したい人は勝手にされればよいし,実際そのように評価される側面もあるが、それには何の意味もないと思いたい。そう,意味などを考えていたら教育などできないのだ.

 私たち経験的に言えるのは、「難関校合格するだけの学力をもつ生徒がたくさんいる高校」は難関校合格者が多いということ、「英語ができる生徒のたくさんいる高校のTOEIC平均スコアは高い」ということであって、それは単なる同語反復に過ぎず、当該教育機関の行っている教育の卓越性については何も語らない。そう,卓越性などということは,いくらでも別の尺度で図れるからだ.

 もし、本気で教育機関としての優秀性を難関校合格者で測定したいと思うなら(誰が思うか知らないが)、高校入学時点で複数の高校に同数の生徒をランダムに配分して、「よーいドン」で教育して、3年後の東大合格者数やTOEICスコアを比べればいい。新薬の治験と一緒である。ランダムにグループ分けして、こちらにはA高校の教育をほどこし、こちらにはB高校の教育をほどこし、3年後の同じ試験を課して学力を測定すればとりあえず教育プログラムの限定的な効果についてはデータが手に入るだろう。そういうことをやっている教育大学付属の小中学校はある.試験はほどほどに,抽選で生徒を入学させ,カリキュラムの効能を見る.やろうという人はいるが,教育機関や教育プログラムの質の指標をそのような数値で示すことが実は無意味であると無意味に主張したい人には不都合な事実だろう.

 教育プログラムを真剣に考えない人は,「この教育方法でやってみたら、うまくゆきませんでした」ということを教育する側は絶対に言うことができないから改革などできないと言うだろう。学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。確かにそうだが,社会は何時の時代でも変化を続けているし,教育においてもある程度の「実験」は許容しないと子供たちの生きる力を担保できない。

 ああ,自分としては教育機関の卓越性は科学的には考量不能であると強弁したいところなのだが,どうも雲行きが怪しくなってきた.ここは思い切って脈絡もなく過去に遡ろう.松下村塾にしても、適塾にしても、懐徳堂にしても、劇的な成功を収めた学校は歴史上たくさんあるが、それが成功した理由を科学的に証明することは誰にもできない。それを証明するためには、松下村塾と同じ資質の塾生たちを集めて、吉田松陰ではない人が教えた場合のアウトカムを比較するしかないが、それが不可能だからである。

 卓越した教育機関が卓越しているのは「卓越した資質を持った若者たちが、そこに惹きつけられて集まってきた」からである。私たちにはそれしか言えない。別に吉田松陰が有為の青年たちに向かって、「うちで学ぶとこんなに知力が上がり、いずれ歴史的転換点で大きな働きをして栄爵を得るでありましょう」というようなパブリシティをしたわけではないし、「他と比べて、こっちの方が学習努力の費用対効果がよさそうだ」と算盤を弾いて、高杉晋作や伊藤博文や山縣有朋が門下に参じたわけではない。彼らがそこに行ったのは,政治という教育を行える先人がそこにしかいなかっただけだからだ.松下村塾には吉田松陰がおり,適塾には緒方洪庵がいた.それだけであるし,それで充分であった.そこで何が行われているのかわからないし、そこで講じられていることにどんな有用性があるのかよくわからないけれど、「なんだか知らないけれど、そこに行って学びたい」という若者たちが蝟集してくる学舎が教育機関として結果的に高いアチーブメントを示す。私たちが知っているのはそれだけである。教育機関の質はそこで学んだ若者たちがそれからあとなしとげた仕事の質によって見るほかない。そのときはじめて「これほど優秀な若者たちが一堂に集まった学舎はきっとすぐれた教育プログラムを行っていたに違いない」という推論が成立するのである。ある教育機関の質は、そこで学んだ人々のその後の生き方を見ることで事後的に測定するしかない。だが、「棺を覆いて定まる」という言葉が教えるように、ある人が「どのような評価を得たか」が確定するまでには長い時間がかかる。松下村塾の卓越性が歴史的に証明された頃には関係者は全員死亡しているので、科研費をつけることもできないし、塾長に紫綬褒章を送ることもできない。そうものである。私たちがある学校の卓越性や瑕疵についてのエビデンスを得るのは、いつだって「もう遅すぎる」ようになってからなのである。

 さあ,全然根拠は示せないが,充分に煙に巻かれただろう.だから、教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もないと断言する.教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。それが教育のアウトカムで,人によって測定可能だという件については不都合なので無視する.

 私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。もちろんこのことは,教育の効率性とはなんの関係もない.

 人間は実に多様なきっかけによって心を開き、心を閉じ、学び始め、学ぶ気力を失い、成長を開始し、退行する。私たち教師が言えるのは、「経験的に比較的効果的な方法が存在する」ということだけである。その方法さえ教師ごとにみな違う。だから、教師たちが集合的に「正しい教え方」について合意形成するということは決して起こらない。

 だが、まさにすべての子どもを斉一的に知性的感性的に成長させる方法が存在しないという当の事実が人間の本質的な開放性を担保していると私は思う。それは言い換えると、あらゆる人間のあらゆる言葉、あらゆるふるまいが、子どもたちにとっては「学びのトリガー」となる可能性があるということである。そうでも言わないと,無能な教師の生きる糧はなくなる.

 やがて知的なブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)にとって、目の前に立つ教師のほとんどは(残念ながら)知的にはあまりインスパイアリングではない。もちろん私のようにVの発音だけをヴとしてみてなんとなく俺ってイケてるふうの記述をしてみても,実は本当にカタカナで書くならイノヴェイティヴだし,rとlの違いはどうなんだ?というツッコミもあり得る.馬鹿な教師はいくらでもいる.けれども、「教師が十分に知的に啓発的ではなかったためについに才能が開花しなかった天才」というようなものを私たちは想像することができない(その程度のことで萎れてしまうものを私たちは「才能」とは呼ばない)。教師は、しばしばその狭隘さや愚鈍によってさえ子どもの学びを起動させることができる。「なぜ教師たちはこれほど愚鈍なのか?」という問いはある種の子どもたちを「学校」や「教育」についてのメタ認知に導く(彼らはいずれ「誰であれ教壇の向こうに立っていてさえいれば教育的に機能する。人は教える立場にある限り、教えることができる」という人類学的知見にたどりつくだろう)。そう,社会の発展なんて,天才に任せておけば良いのだ.勝手にやってくれる.

 気づきましたか?TOEICや東大合格者数が教育のアウトカムでは全然ないと主張しておきながら,松下村塾や適塾が維新を動かしたということでアウトカムとして評価しうるという根拠を全く説明しないというダブルスタンダードに.そこまで気づけば立派なものだ.本当は教育とは自立する力を育むものだ.ただ解答のある問題を解くだけではなく,また30年も大学で教鞭をとっておきながら,おませさんの中2くらいの論考しかできない名誉教授を論破するだけでは充分な力ではない.なぜ教授と呼ばれる人がなんの恥も外聞もなく無意味な文章を垂れ流すことができるのだろう.そのような問から,「ああ,生きるとは自由なことなのだ」と気づく過程,それが教育なのである.

「効率」というのはもう変化することのない価値を抽象的に切り出された単位時間で除して得られるものである。だからたとえば東大合格者数や有名企業就職者数で教育のアウトカム,効率を論じることはできる.しかしそのような数値は,必ずしも自由な人間としての力を表さない.教育をより「効率的に」「深く」進化させるためには,人々にとっての自由をどのように深めるか,それが鍵である.そしてそのような論考すらできず,具体的な提案すらできず,教員は何もしなくて良いし,僕がイイコイイコしてあげるという名誉教授にどれほどの存在価値があるのか、もうこれ以上の言葉を継ぐ必要はないだろう。