秋葉原で無差別殺人事件が起こった.

被害者とそのご遺族の方に,心からお悔やみ申し上げます.

そして,非常ないらだちと反感を誘うであろうエントリーをつづけて2つのせる.一つは重大なことであり,もう一つは他愛もないことだ.



事件の第一報を聞いたのは午後3時くらいであった.その時点ですでに5人か6人の方が「意識不明の重体(心肺蘇生中・手術中・人工呼吸管理下)」という情報があった.しかも凶器はナイフである.しばらくすると,凶行はわずか数分のうちに行われたとの情報が入ってきた.とても素人の犯行とは思えなかった.なんらかのテロではないかと疑った.いくら無防備の人を襲うにしても,刃物での殺傷は簡単ではない.それも7人以上を連続となると,かなりあつらえた武器・急所に対する知識,そして明確な殺意がなければ完遂し得ないものだ.犯行の性格から考えて,一人の被害者を何度も刺すということはないであろう,ゆえに一撃の致命傷が何発もあった可能性が高い.

犯行に使ったとされるナイフの形状をみて,技術的な納得は得られた.かのナイフが殺傷用にデザインされたものであることは,すぐにわかる.わざわざ遠方までナイフの購入にむかったことから考えても,犯行当時の精神状態がいかなるものであれ,事前に殺傷に対するかなり明瞭なイメージを持っていたことが推察される.

その場にいて,救命活動に参加できなかったことが残念でならない.致命傷の一つである肺裂傷は,我々の専門領域である.きわめて危険な外傷で,30分以内,可能なら10分以内に専門家の治療が開始されることが望まれる.しかし仮に専門家がいたとしても,道具がなければどうにもならない.もし信じがたい偶然により,チェストチューブと気管チューブと電気メスと大量の生理食塩水をもった呼吸器外科医が一人居合わせたら,最大で2人くらいは助かったかもしれない.しかしこれを望むことはできない.

使い捨てメスとチェストチューブくらいは,やはり常に携帯しているべきなのだろうか.真剣に悩ましい.交通事故などの高エネルギー外傷と異なり,刃物による肺の創傷は即死とはなりにくい.もし病院の目の前で刺されたのであれば,助かる可能性は多少高くなる.これが時速80kmの車との衝突では,病院の目の前でもどうにもならないことが多い.盲目的初期治療が功を奏するとしたら,胸部の刺し傷である.それゆえ,初期治療の道具は持つべきなのかもしれない.

電車の中でレイプが行われてもだれも助けにいかないこの国において,先日の凶行の最中,果敢に救命活動に参加された一般の方に最大級の賛辞を捧げます.今回の事件は報道の通り,救命行為に当たってB型肝炎感染リスクが存在する事例であった.もし意識の高い一般の方がいらっしゃったら,マウスピースとグローブは常に携帯されることをおすすめする.医学的には人工呼吸よりも心臓マッサージが優先されるため,なにはともあれグローブの携帯が望まれる.救命グッズに関しては希望者に無償で配布する行政サービスがあってしかるべきだ.

つい数年前,ここ仙台においても無差別殺人事件が起こった.「概念的に」車両進入禁止であったアーケード街でトラックが暴走したものである.マーフィの有名な法則を持ち出すまでもなく,「起こりえることは起こる」のである.たとえばつっこんだトラックから降りるというドラマティックな展開なしに,たとえば山手線から降り立った彼がこのような犯行を始めるきっかけがあっただろうか.仮定の話には答えようがない.しかし完璧にはほど遠いとはいえ,ナイフの取り締まりも含め,凶行を物理的に取り締まる対策はいくらでもある.仙台の教訓がまったく生かされてない.



犯行者のパーソナリティについてとやかくいうつもりはない.派遣労働の闇という文脈での事件のプロファイリングは,あっという間にネット上を席巻した.一方で,世の中には(あるいは外国には)もっと貧しく悲惨な環境でも犯罪を犯すことなく健全に生きる人々がいるという当たり前の事実に照らし,犯行者の未熟をなじることも可能だ.しかしこのような考え方は,貧しさを所与として受け入れ,これを抗いがたい運命として生きよといわんばかりのもので,傲慢だ.そのような貧困に於ては,やはり犯罪は多く,人々はつねに誘拐・強盗・殺人の恐怖と隣り合わせで生きている.かつ最悪なことに,現在のグローバル経済(すなわち我々の豊かな生活)がこのような貧困を前提として成り立っている.この事実を忘れてはならない.貧困を比較してはならない.

彼は死刑になるであろう.それで終わりだろうか.彼を死刑にして,この種の犯罪はなくなるのだろうか.犯罪がなくなる可能性が少ないから死刑をなくそうと主張するつもりはない.しかし私は,もっと自覚的に死刑廃止論に傾いている.もちろん私自身の不勉強により,理論的背景はまだない.いま私が考えているものは,殺人行為に対するリアリティである.

今回死刑判決が出る,それによってカタストロフを得る人が多くいるだろう.山口母子殺害事件,死刑判決を聞いて多くの人がほっとしたはずだ.しかしそのカタストロフの成因について,もっと真剣に考察するべきである.ゴミはゴミ箱へ捨てられ,回収所に集積された.それで終わりなのか?ゴミはそこから自然消滅するのだろうか.

今回死刑判決が出る.死刑を処するのはあなたではないが,死刑執行のボタンを押さなければならない人が他に必ずいる.囚人が階段を上り,縄に首をかける.執行人が複数いて,同時にボタンを押す.床が抜ける.だれのボタンによって作動されたかはわからないが,これによって絞首刑が完遂される.自死ではない.以下の概念は否定しようのない物だ.

死刑とは,国家による殺人である.

未開時代,法すらなかった.江戸時代までは仇討ちが許されていた.我々は法治国家として私刑・リンチを捨てた.しかし国家による殺人は,許すどころか歓迎している.われわれは殺人を,戦争による虐殺を憎んでいるはずだ.そんな我々がなぜ国家による殺人を許すことができるのだろうか.さらにいうと,ここでいう「国家による殺人」とはあくまで概念上のものであり,実際のところ,業務として誰かが誰かを殺しているのである.そして我々は,その仕事を「誰かに」やらせてしまっているのである.

歴史を経て,個人による殺人は罪となった.われわれは国家による殺人も罪であると考えるステージに立つか否か,考えずにはすまされない時代に生きている.EUは死刑制度の廃止が加盟条件である.彼らは声高には言わない.しかし彼らのメッセージは明確だ.

「死刑制度を持つ国は,野蛮国である」

EUには戦略がある.それゆえ表面的なことをことさら強調する必要はないし,かえって術にはまる可能性もある.しかしそれでも,死刑制度に対する彼らの明確な主張に対し,我々は真剣な回答を構成しなければならない.個人による殺人は罪であるのに,その集合である国家による殺人は罪ではない.それは紛うことなきファシズムなのである.それがファシズムではないという整然たる理論を構築できない限り,死刑制度を維持することは欺瞞以外の何者でもない.



事故はなくならない.天災もなくならない.病気もなくならない.しかしせめて,殺人だけはなくしたい.人が人を殺したり,自分が自分を殺したり,国家が人を殺したり,概念上はいろいろ種類がある.しかし殺人にあるフィジカルな要素,それは誰かが誰かを殺す,それだけである.それゆえ,すべての殺人は等しく憎まれるべきである.

合掌


(夜中の文章で,脈絡がうまくいってないため,改訂しました.6/12)


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