臨床フリーをいいことに,コンサートラッシュになっている自分.来週から新婚旅行でイタリアへ行ってきます.

すごい偶然なのだがローマで予約したホテルがコンセルヴァトワールの目の前で,しかも滞在するちょうどその日に,私がかねがね絶賛しているクリスティアン・ツィマーマンのピアノリサイタルがあるとのこと.WebSiteをみて目を疑ったが,確認して速攻でゲット.さすがに安い(一番いい席で一人30ユーロ).プログラムはバッハ・パルティータno.2,ブラームスop.119.,ベートーヴェンno.32,シマノフスキと相変わらずの超重シリアス路線だが,旅も前半だし楽しめるだろう.ヴェネツィアではあのフェニーチェでセビリアの理髪師を観劇してくる.



さてつい先日,諏訪内晶子のリサイタルに行ってきた.プログラムはモーツァルト・ドビュッシー・ベートーヴェンno.9(いずれもヴァイオリンソナタ)というこれまた3球連続直球ど真ん中というメニューである.

諏訪内の生演奏は初めてであったが,まず驚くのはその「完全なる美音」である.美しさしかないという音を,私はこれまでに聞いたことはない.左手・右手ともに完全なリラックスを与えられており,技術的な不安感は全くない.再弱音でも音程がぶれることはなく,最強音でも音が張り裂けることはない.各音符にはほどよいヴィヴラートがかけられ,押しつけがましいボウイングや,不用意なテンポ・ルバートは皆無.圧巻はクロイツェルの終楽章,これぞPresto!というテンポで一切の難所を感じさせることなくはしりきった.これぞ音楽の完全試合である.

であるからして,これから書くことは一切誹謗中傷ではない.彼女の幼少からのたゆまない研鑽に深い敬意を捧げる.また(おおっぴらにされてはいないが)結婚と出産そして師匠の死という一大事が立て続けに起こったにもかかわらず,家庭と両立しながらも第一線の演奏活動を続ける姿勢は本当に頭が下がる.だからどうしてこのコンサートで以下のような印象を持ってしまったのかまったく分からない.

なぜか今回の演奏は,まったく感動できなかった.

これは私にとっても衝撃的なことであった.二晩を経過したが,どうにも消化しきれない事実である.私は演奏における「精神性」というものを全く信じていないし,精神性とはすなわち後進性だと思っている.全ては知性と技術に基づくと堅く信じている.彼女の技術はこの上もなく完璧であった.では知性がないのだろうか.あるいは私の仮説が完全に間違っているのだろうか.それとも私の感性がアホなのか.

もうすこしゆっくり考えてみたい.