作家の村上龍が主催する「JMM 」というメールマガジンがあって,おもに金融経済を中心にその専門家が村上龍の質問に答えるという形式をとっている.たまたま医療問題に関するテーマがあったので投稿してみたら掲載された(前にも一度投稿したら掲載されたので,基本的には載るのでしょう).勢い余って論点がよく分からなくなっているところもありますが,みなさんどのように考えますか.


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■ 読者投稿編:Q:901への読者からの回答

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【Q:901】

 経済合理性の観点から考えて、医療費を上げずに、地域医療の疲弊と崩壊を防ぐ方法というのはあるのでしょうか。

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 ■読者投稿:

「医療」というものについては,その資源の配分について様々な背景(経済的条件)が存在し得ますので,その「経済合理性」についても背景となるドグマによって様相は異なってくると思われます.現在の日本は基本的に市場経済・資本経済をとっていると考えられ,その原理は生活の隅々にまで行き渡っています.今回問われている「経済合理性」については市場経済を念頭に考えたら良いでしょうか.

 いわゆる「医療費」を上げずに地域医療の疲弊と崩壊を防ぐ方法として完璧ではありませんが,いくつかのまとまった方法を提案します.①明確な殺意・故意がない限り医療者が刑事訴追されない.②過失・事故を問わず,医療行為に関連して患者に損害・障害が発生した場合,その症状に応じて経済的補償が支払われる保険機構を設立する.③過失・事故の原因を可能な限り科学的に究明する機関を設立する(かつこの機関は司法と連動しない).

 なぜこのような提案をするかについて以下に述べます.

 経済合理性を「限られた資源の,ある条件の下における,最適な配分」と定義した場合,現在の医療状況は,この経済合理性によく沿ったものといえます.このことを検討するにあたって,医療がもつ特徴について考察する必要があります.

 まず第一に生命やクオリティ・オブ・ライフ(QOL)に値段という物が存在しないことです.生命の部分的側面(労働力等)についてはプライスをつけることは可能かもしれませんが,生命・生存の価値に「適正」市場価格をつけることは不可能です.もちろん現在の基本的人権に関わる倫理観が崩壊すれば価格をつけることも可能ですが,本人や家族が付ける値段と,他の人が付ける値段には大きな開きが出来るでしょう.いずれにしても市場価格の形成は不可能に思えます.

 逆に考えると,本人がその気になればいくらでも資金を投入することが出来ます.実際の医療費は公定価格なのでそこに歯止めはかかりますが,相対的にみて,都市部には差し迫った危険とは関係のない,すなわちリスクの低い需要があふれています.このあたりのことは他の財・サービスについても同じことが言えるかもしれませんが,医療においても顕著だと推察します.

 第二に供給側に大きな規制がかかっていることです.医療を発注・施行する責任者である医師は国家試験合格レベルで毎年8000人程度供給されますが,その前段階ですでに6年間の専門教育を受けなくてはなりません.2004年からは臨床研修が義務化されさらに2年の修練がつまれます.ご存じの通りこの段階でもまだ使い物にはなりません(要求度を下げれば別です).

 たとえば私が専門にしようとしている呼吸器外科においては,その専門医になるためにまず5年間の一般外科修練の後に外科専門医資格をとり,さらに専門研修を2年重ねて呼吸器外科専門医を取得します.もちろん各段階で試験によるふるい落としがなされ,また資格は5年ごとの更新が要求されています.

 現在の高度に専門化された医療に於いては,慢性的な供給不足が続いています.状況を咀嚼できないメディアなどでは「プライマリケア(最初の処置)だけでもできる医者を・・・」などといいますが,丸腰のプライマリケアほど難しいものはありません.もちろん要求度を下げれば話は別ですが,専門外診療というものに皆さんが決して満足できないことだけは断言できます.

 第三に医師法第19条「応召義務」と医療裁判判例の構造的ギャップです.医師法第19条には「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」とありますが,この「正当な事由」とは主に「医師の病気」ほどの事態をさし,疲労程度で断ることは義務違反に当たるという昭和30年の厚生省通達が生きています.したがって満床・専門外等の理由では,厳密には断れません.

 しかしこの条項には罰則規定がありません.そのため患者の診察を断っても供給側に実害は生じません.一方の判例は苛烈です.その時点・その場で可能な限りの予測と処置のみならず,適切な処置が可能な施設への搬送も要求しています.それだけではありません.受け入れたが最終的に処置が出来ないことが判明し,他の専門病院へ搬送.その後死亡した事例について,処置できないことが予想されたにも関わらず受け入れたために処置を遅らせてしまったという責任を負わせる判決も出ています.

 このような判例がでていては,実質的にあらゆる症例について最高水準の総合病院へ搬送するほかにこのリスクを回避する方法はありません.もちろん最高水準の総合病院へ患者が殺到した場合,物理的に対応しきれないという新たな本質的リスクが生じます.

 よく「最高水準でなくとも最低限の医療だけでも・・・」という要求がありますが,先述の通りこれは絵空事です.「最低限」として生命の維持や後遺症が残らないことなどが挙げられますが,これは最低限ではなく「最高の結果」です.医療は生命に何かを付加する行為ではなく,毀損されたものを可能な限り回復する業務です.したがって毀損のない状態への回復は最高の結果となります.

 皆さんは最低限の医療ではなく,常に最高の結果を求めているのです.

 患者を断った場合では応召義務違反という罰則のない違反に問われるのみ,一方受け入れた場合では最高の結果を求められ,つねに刑事・民事訴訟のリスクを抱える.市場経済における合理性を考えた場合,救急患者を受け入れることのほうが非合理的です.

 以上をまとめます.

○生命やQOLには限りない需要がある.
○リスクの少ない需要が集中する地域がある.
○応召義務違反には罰則規定がない.
○判例ではいかなる状況であれ結果的に最高水準の医療が求められている.これを達成できなかった場合,多額の賠償金が発生するのみならず,裁判へ多大な労力が奪われ,医療者のライフプランが崩壊する.
○最高水準の医療を提供できる医療者の数は限られている.
 これらの諸要素を考えた場合,過疎地医療からの撤退・都市部への集中という流れは経済合理性の観点から不可避の事態と思われます.状況はもはや不可逆的と思われますが,もし可能な対策があるとすれば私には最初に述べた方法しか思いつきません.

①明確な殺意・故意がない限り医療者が刑事訴追されない.

 医療者でも過疎地での医療にあこがれをもつ人はかならず一定数存在します.都会での医療に合わない人も一定数存在します.それは生活者と一緒です.しかし現時点では,過疎地での医療は極端にリスクが高いと言えます.たとえ自分に自信があったとしても,バックアップがなければやっていけません.しかしバックアップとなるべき基幹病院ですら医事紛争が日常化して疲弊しており,リスク回避傾向を強めています.

 医療裁判の大きな問題点は,医療者以外の関係者がすべて素人ということです.たとえば弁護士の職務上の過失について,医師や新聞記者が六法全書を片手に判事席に立ち,「他の弁護士」の意見を聞きながら裁判する状況を考えればわかりますが,このような滑稽なことが医療裁判では平然と行われています.

 生命現象や医療には,不確実な要素が限りなくあり,その正当性を裁くにあたって裁判所はそもそも適切なところではありません.特に刑事裁判では被告に黙秘権があり,また検察としても原告に不利になるような証拠・証言は法廷に出してきません.「裁判で真相を明らかにしたい」というコメントがよくありますが,残念ながら裁判で真相が明らかになることはありません.

 それゆえ医学的にかなり無理な判決がいくつか出ており,それにあわせるために過剰検査や萎縮医療が日常化しています.

②過失・事故を問わず,医療行為に関連して患者に損害・障害が発生した場合,その症状に応じて経済的補償が支払われる保険機構を設立する.

 多くの場合,医事紛争で懸案になることは経済的補償・真相究明・謝罪ないし私怨の発散ということになると思います.

 最後の項目のシステム化は文明国として避けるべきと思われます.しかし残念なことに適切な医療がなされればかならず「良くなる」という迷信が広く深く浸透しています.意にそぐわない結果となった場合は必ずどこかに過失があったはずだと考える傾向は,もはや覆しようがないほどに思えます.この認識ギャップは非常に深刻で,「謝罪」という項目をシステム化することは困難と思われます.

 一方経済的補償や真相究明はある程度システム化することが可能でしょう.現状では法的な賠償責任が生じた場合のみ支払われる賠償責任保険は存在しますが,ミスではない医療事故まで補償するシステムがありません(少なくとも私は知りません).どのような技術レベルであれ,一定の確率で思わしくない結果が生じるのが医療行為です.それゆえ全ての医療行為に対し,一定の医療事故保険料をかける方法をとったらどうでしょうか.保険料は医療機関と患者で折半することとします.

 たしかにこの保険料によって見かけ上医療費は上がるかもしれませんが,これによってある程度医事紛争に関わる費用を減らすことができると思います.経済的なバックアップが保証できれば,患者も医療者もより積極的な医療を構成することが出来るかもしれません.日本の医療費30兆円に対し年間の賠償金・示談金は10000分の1程度と思われますので,それほど多額の負担増になるとは思えません.

 医事紛争の負担を減らすと言うことは,コミュニティにとっても非常に重要なことです.医事紛争がもつれると双方のエネルギーはただ消耗されるのみで,何も生み出しません.その間当事者が生産者あるいは医療者として社会に寄与できる部分が大幅に毀損されるため,社会全体としての遺失は無視できないものです.

③過失・事故の原因を可能な限り科学的に究明する機関を設立する(かつこの機関は司法と連動しない).

 真相究明のためのシステムも確立する必要があるでしょう.事故であれ過失であれ,起こったことを全て明かし,データを集積することによって次の事故防止策を効率的に編み出すことが可能になると思います.最終的には医療の「生産性(不適切な用語ですが)」を向上し,結果的に医療費の逓減につながると思われます.これにあたって一番重要なことは,この真相究明システムが司法に連動しないことです.むしろ経済的補償をどうするかという判断についてこのシステムを利用すれば,真相究明に対し患者・医療者ともに強いインセンティブが働くと思います.

 現在これと似たようなシステムが死因究明制度という形で動き出そうとしていますが,一番の争点となっていることは,この制度が司法との連動を否定していないことです.これは無意味どころか逆効果です.真相究明システムは全ての死亡事故の報告を求めていますが,司法に連動する可能性が少しでもあれば,事故を隠そうとするインセンティブが強力に働きます.またリスク回避医療にもより拍車がかかるでしょう.

 現実には病気や事故で亡くなったにもかかわらず,その事実を受け止められずに医療者に転嫁させようとする思いが医事紛争をドライブしているということがあります.死因究明制度には遺族の参加を可能にするかどうかという問題もあります.飛行機事故の調査委員会に遺族が加わらないように,この種の制度に遺族が参加するのは意味がないと思いますが,どちらにしても私怨を発散する場をシステム化するという文明国にあるまじきことが現実にならないよう祈るばかりです.

 医療は不確実です.逆に言うと奇跡的なことも起こります.これは患者と医療チームがお互いに深い信頼関係にあるときにしか起こりません.私は非常に経験の浅い外科医ですが,それでもこのような奇跡に何度か立ち会ったことがあります.しかし裁判を前提とした医療の場合,このような信頼関係が醸成されることはありません.それゆえ奇跡の回数はどんどん減っていると思われます.これが萎縮医療の結果ですが,これも皆さんが常日頃から最高水準の医療を求め,その手段として裁判を選んだ結果,不可避的にもたらされたものです.地域医療の疲弊は,皆さんが望んでいることなのです.

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 私は自分を守るために医師になりました.高校2年の冬に阪神淡路大震災と地下鉄サリンテロが起こりました.これら2つの事件を見て最初に思ったことは,「なにか突発的な事件が起こったら,他人や政府は当てに出来ない」ということでした.紛争は相変わらず世界各地で起こっており,北朝鮮には核開発疑惑がもたげ始め,国内は不況(私は1978年生まれ,完全なるロストジェネレーション世代です).これだけの刺激があって初めて私は「自分のことは自分で守らなければならない」「安全はタダでは手に入らない」という当たり前のことに気づきました.

 当時,「医師は余っている」とさかんに喧伝されていましたが,世界の状況を考えた場合とてもそんなことは言えないという直感がありました.その後も紛争・災害・テロはつづき,国内では医師不足と,図らずもその直感は的中してしまいました.しかし医師不足でなくとも,私は自分や家族を守るために医師になっていたと思います.自分の父が癌にかかったとき,自分の妻が拳銃で撃たれたとき,自分の息子が交通事故にあったとき,手をこまねいて見ていることだけは避けたいと思いました.

 たまに現在の医療環境の暗澹たる状況をみて,「しまったかな・・」と思うときもありますが,ひととおりの救命処置法を習得し,家族や友人の危機に際してなんとか精一杯のことは出来るだろうという見通しが立ちました.そして崩壊する医療環境を眺め,やはり選択は間違っていなかったと思っています.どんなに不満があろうとも医療を供給できるのは我々だけだということをもうすこし真剣に考えるべきです.

 福島の産婦人科大野病院の事件は,まさに崩壊の鐘です.あの逮捕が医療界にもたらしたマグニチュードは計り知れないものがあります.仮に無罪になったとしても,崩壊に歯止めがかかるとは思えません.真相究明制度が司法に直結するようなシステムができあがったとしたら,合わせ技一本と言えます.0歳児平均余命1位・WHO評価1位という世界に冠たる福祉水準をささえる日本の医療は,その受益者である皆さんの手によって解体させられるのです.

 私にはこれが不可避に思えます.それゆえ自分や愛する人の安全保障に多大な関心を寄せられる方は,直ちに医師になることを強く推奨します.