人と初めて会うとき,フィジカルな思考を基本としているかどうかが,やはり気になる. ほとんどの人は反応的に生きるか,ポリティカルな思考のみで生きており,これらの人はフィジカルな思考を理解できないし,むしろ目をそらしたいと思っている.ポリティカルな思考とは,辞書を見て「この件はこうあるべき!」ということ以外考えないことである.



 しかし実際そのようなことを言う人でも,フィジカルな思考を基に生きている人もいる.フィジカルな思考を持つ人は,世界がよく見えているが故に,この世がポリティックスや偏見による反射的思考に埋め尽くされていることをよく知っている.そしてフィジカルな思考はポリティカルな思考の気分を大いに害することが多く,前者は後者に気を遣うものである.



 フィジカルな思考とは何か.それは例えば,「暴力団の男が自宅のドアを蹴破って侵入し,持っている拳銃で頭を打ち抜かれたら死んでしまうな」,と考えることである.あるいは「肺癌になったら,運がない限り助からないな」と考えることである.要するに,理由がどうであれ人は死ぬということである.開き直りとも違うし,自暴自棄とも違うし,あきらめとも違う.死は恐怖である,それをどう受け止めるかと言うことである.



 医療に携わると少し分かることがある.人はそう簡単には死なないが,いつ死んでしまうかは分からないと言うことだ.人間に限らず生命は皆,明日をもしらぬ命なのである.しかしそれを見つめすぎるのは恐怖だ.明日死ぬかもしれないのにまるで不死であるかのように生きるのは,ある意味で人の美徳かもしれない.明日も生きるという思いが,自己を律することもある.



 前世紀はあまりにも多くの人が死んだ.数十万人の人が数秒のうちに死んだこともあった.何百万もの人が一ヶ月のうちにに虐殺されたこともあった.今世紀の幕開けも最悪だった.まだ生贄が足りないというのだろうか.あるいは大戦のような大量虐殺よりも効率的に死の世紀を演出できるとほくそ笑んでいるのだろうか.我が国でも1日に100人以上が自らの手で自らを殺している.



 殺そうと思わない限り,人間は簡単には死なない.この世には殺意が溢れかえっているようにみえる.そうでないと,この死者の数は説明できない.あなたには殺意があるだろうか.あるいはあなたの周りの人には殺意があるだろうか.考えてみて欲しい.これほどの死者を説明するほどに,あなたの周りには殺意があるだろうか.



 10億円が惜しいか.そのために人が3人くらい死んでもかまわないだろうか.かまわないと考える人がいる.いやむしろ人死にこそ上等.軍需産業というわけではなく,そういう回路が存在する.そのような回路が,ベルトコンベアーのように死人を生み出しているのだ.



 こういう回路にかかわらずに生きてゆきたいと思う.しかし死人を生み出すベルトコンベアーは,あまりにも我々の生活に密着して機能している.なぜならそのベルトコンベアーを動かす動力源が,「この世には死んでもかまわない人がいる,あるいは死ぬべき人がいる」という我々のポリティカルな思考だからだ.