そろそろこのシリーズも終了に近づいている.バロック後期のヴィヴァルディからはじまり,器楽と資本主義経済と啓蒙思想の発展とともに変化を遂げてきた西洋古典音楽について,作曲家の系譜をたどりながら概観してみた.19世右記,ベートーヴェンによる統一を経験し西洋音楽は黄金時代の奔流を迎えた.それは自意識の爆発であり,音楽を民主化する過程でもある.

 19世紀の音楽はベートーヴェンまでの音楽の要素を,ベートーヴェンの枠組みの中で,それぞれに先鋭化していくことであった.ブラームスは古典音楽を継承し,ベルリオーズはロマンティックでややヒステリックな感性を受け継ぎ,シューマンは「楽壇」と呼ばれる音楽のプロフェッショナリズムを確立した.そして人類史において異常なまでに垂直方向の音列へ傾倒した西洋の和声学を極限まで推し進めたのがショパンそしてリストである.

 ドイツ・オーストリアを中心とするロマンチックムーブメントは,この後ヨーロッパ中に拡散する.これはたとえばロシアではムソルグスキー・ボロディン・チャイコフスキーなどが,チェコではスメタナ・ヤナーチェク・ドヴォルザークなどが,フランスではサラサーテなどが,イベリアではアルベニスなどが,「民族主義」との交配でロマン派を引き継いでゆく.自己覚醒の物語は,民族の記憶まで呼び戻したようである.肥大化した自己意識をうまく調性の枠内に収めるためには,例えば民族的なペンタトニックに託してみたり,あるいは民謡に託してみたりと,そういった技が有効になる.それゆえこの時代の民族派は親しみやすく,人気も高い.

 またロマン的自己肥大を完全否定する動きも生まれた.これについては次回以降論ずる.

 病的に肥大化した自意識をそのまま受け止めた希有な音楽家が,今回取り上げるリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)である.当人同士の交流もあって並び称されることの多いリストとワーグナーであるが,きわめて意識的にかつ鋭く未来の和声を洞察する目と不思議なほど開かれた耳を持っていたリストに対し,ワーグナーはその予見する未来の一つの方向のみを追求した.それは要するに半音階進行である.

 ワーグナーの音楽史上の偉大な業績というのはたぶん2つあって,1つは究極のオペラとも言える「楽劇」理論の完成であり(だれも引き継ぐものはいなかったが),もう1つはもちろん「トリスタン和音」である.

 バイロイト祝祭劇場は彼の楽劇を上演するための専用劇場であり,この建設のために国まで傾いたと言われる.ワーグナーの楽劇はひたすら規模が大きく,最大の「ニーベルングの指輪」にいたっては上演に4晩もかかる.

 ワーグナーについて語るのはやはりワグネリアンにまかせるか,あるいはアンチワグネリアンに任せるしかない.ならばなぜ書くのかといわれると,返答に窮する.私はワーグナーの楽劇を見たことがない.やはり見れば感覚も変わるのだろうか.いずれにせよ総合芸術「楽劇」を評価するには,直接見る以外にあるまい.もちろん彼自身の人生もかなり偉大で病的だ.


 人格にはかなり問題があり、自己中心的でわがまま、平気で嘘もついたという。ニーチェはヴァーグナーと決裂した後に、彼について記した自著の中で「彼は人間ではない、病だ」と表現している。トーマス・マンも彼の性格は「いかがわしい」と嫌悪した。若いときは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ったりし、パーティーで出会った貴族や起業家に「貴方に私の楽劇に出資する名誉を与えよう」と手紙を送ったりした(融資ではなく出資である)。これに対し拒否する旨の返事が届くと「信じられない。作曲家に出資する以上のお金の使い方など何があるというのか」と攻撃的な返事を返したという。また夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかったという。さらに常軌を逸する浪費癖の持ち主で、支援者から多額の借金をしながら、自らの専用列車をしたてたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を一ヶ月で使い果たしたこともあった。また、過剰なほどの自信家で、自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだと公言して憚らなかった。

 やはりベートーヴェンだけは尊敬しているというのがかわいらしいというか,かほどに病的な男にとってもベートーヴェンは偉大だったのだと改めて確認できる.

 彼のもう一つの業績,トリスタン和音についてである.

トリスタン

 3小節目の最初の和音 F-B-D#-G# である.並べ替えると F-A♭-C♭-E♭ となり,短三度を重ねた減五の和音に短七度を当てたもので,減五七なる和名もある.ドから始めるなら,ド-ミ♭-ソ♭-シ♭という感じだ.近くに楽器があれば弾いてみても良いし,またWikipediaにはサンプルMIDIもある.これは「トリスタンとイゾルデ」という楽劇の第1幕への前奏曲の冒頭にいきなり現れる和音であり,それゆえトリスタン和音と言われる.

 ロマン派の音楽家たちが好んで使った和音に減七の和音というものがある.音程的には近く,最後の七度が減七度になっているだけなのだが,全く響きは異なる.減七の和音は確かに曖昧ではあるがテンションが高く,解決を迫ってくる.減七の和音の解決は大きく4つある,というかそれぞれの構成音のトニックに帰るのである.もちろんいろいろなトニックに解決することが出来る,そういった和声であり,曖昧さを好むロマン派に多用された.

 トリスタン和音は少し異なる.聴いてみれば分かるがテンションはそれほど高くないというか,ひたすら曖昧でまったく解決を希求していない.鳴って,鳴りっぱなしである.次に浮かぶ和音がなく,もちろん調性もない.ひたすら曖昧な自己に埋没するというマリファナの世界である(マリファナを吸ったことはないが).

 この和音の登場は「調性音楽の危機」と言われたわけであるが,実際には曖昧さの極限であって,調性の否定ではない.曖昧という言葉は,調性という枠組みがあってこそ意味のある概念であり,調性がなくなったら曖昧もくそもない.このトリスタン和音はマーラーやドビュッシーにも使われる.むしろワーグナーはそのダイアトニックな調性感から決して軸足をずらしてはいない.
 
 むしろリストの実験はドビュッシーにより先鋭化され,牧神においてついに調性音楽の崩壊を迎えるわけである.

 というわけで,ワーグナーについては避けて通ることは出来ないが,かといってあまり語ることもない.それゆえ,これで終わりにする.

ニューヨーク・フィルハーモニック, ワーグナー, バーンスタイン(レナード)
ワーグナー:序曲&前奏曲集