フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は非常に充実した,いい人生を送ったと思う.「村の天才少年」として生まれ,青年期は赤貧と出世を経験し,破天荒ではないほどの紆余曲折,しかし晩年は当代一の名声と地位を手に入れ,音楽史に燦然たる足跡を残す.うまくいかない結婚生活と,複数の愛人,そして愛人に産ませた子供.死に際まで創作意欲は衰えず,たくさんの見舞客に見守られ,ナポレオン・ウィーン侵攻の砲声を聞きながら永眠.なんと死後,その頭部は自身の熱烈な崇拝者によって切り取られ,おそらくホルマリン処理をされながら150年以上にわたって保存.さまよい続けながらも最終的には発覚し,胴体と一緒に埋葬されたという.

 人生最大の出来事はおそらく50歳を目前にしてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに出会ったことだろう.壮年期はうつ症状から創作の危機を幾たびか迎え,そのたびに鮮やかな復活を遂げたハイドン.古典音楽の未来を切り開き,世俗的な名誉も手に入れ,向かうところ敵なしで迎えた人生の絶頂期に,ヨーロッパ文化史上空前の才能が目の前に現れたのだ.1781年,ハイドン49歳・モーツァルト25歳の時とされる.

 「私が保証します.あなたの息子さんは天才です」

 ハイドンがモーツァルトの父レオポルトに言ったとされる言葉であるが,この言葉の裏にいったいどれだけの思いが込められていたかは,計り知れない..50年かけて到達した高みの末,この自分を不要にしてしまうかもしれない存在が現れたのだ.いかほどの衝撃であったろうか.しかし当のモーツァルトはハイドンを熱烈に崇拝していた.その手法をすさまじいスピードで習得し,あっという間に自分を超えていく.モーツァルトと出会ってから,ハイドンはモーツァルトが得意とするオペラや協奏曲の作曲をやめてしまったのだ.

 しかしハイドンは,あらゆる人間にとっての最大の危機すら乗り越えた.彼は自分を超えていく生徒すら,自らの成長の糧としたのだ.

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 ハイドンはそれ以降の西洋古典音楽の「様式」を決定した人物である.ヴィヴァルディの時代からたとえば弦楽合奏というのはそれなりに楽器の種類も決まっていたが,いかにも「その場にある楽器」を想定して曲は作られていたのである.しかしハイドンの時代になると,古典楽器もほぼ出そろい,また使い手も量産されるようになってきた.

 古典派のシンフォニーを最初に作り始めたのはバッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)だとされるようだ.彼自身は,当時は親父よりよっぽど有名であり(それは親父の代の一番の売れっ子であるテレマンの作風から導き出された物だ),そして鍵盤のヴィルトゥオーゾとしてソナタ形式の確立に大きく寄与したのである.弟のクリスティアン・バッハは,直接モーツァルトを指導しているし,モーツァルト自身,C.P.Eバッハを父とするならば私は子供だと言っている.

 ハイドンはこのC.P.E.バッハの作風を大いに学び,これを当時必要とされていた音楽に整え,誰もが使える形に完成させたのである.それがピアノソナタであり,弦楽四重奏であり,104曲にもおよぶシンフォニーである.彼はそれこそ自らが仕えるエステルハージ家のために,「毎月のように」シンフォニーを書いていたのである.これは数百曲にも及ぶカンタータをつくったバッハも同じである.昔の作曲家はサラリーマンであり,レポートを書くかのごとく曲を書かねばならなかったのだ.

 この時代で一番重要な変化は,音楽を聴く人・弾く人が急速に増えたということだ.以前は貴族が自宅のパーティややミサのためだけにたしなんでいた物であり,せいぜい大規模でも王族の式典に使われていたもの,生産者・消費者の規模とも非常に狭いものであった.それが産業の規模拡大により裕福な人が増え(これぞブルジョワ),一昔前の王侯貴族のまねごとのために古典音楽をたしなむようになったのである.

 このような人々を満足させるためには,比較的規模の大きなコンサートホールにたくさんの人を集めて聞かせる音楽が必要であったし(シンフォニー),あるいは自宅では兄弟や友達が少人数あつまって合奏できるような音楽が必要であった(カルテット・ディベルティメント・トリオ・ピアノソナタなど).つまり求められたのは音楽の規格化であり,これは当時勃興していた産業革命の存在とは無縁ではないと思われる.音楽も規格化,そして重厚長大の時代へ突入し始めたのだ.

 加えてハイドンは,おそらく西洋音楽史で初めて「音楽出版業」を成功させた人物だ.彼はパトロンからの給料だけでなく,公開演奏会(要するにコンサート)や新曲の出版によってその富と名声を不動のものとしたのだ.このようにハイドンは,その音楽スタイルだけでなく,音楽人のビジネスマンとしてのスタイルについても先駆者であった.

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 さてアルバムを紹介する.やはりこのシリーズが求める物からして,彼の曲として紹介すべきは弦楽四重奏とピアノソナタであろう.彼は「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれているが,それはまさにその通りであるからだ.しかもモーツァルトとの絡みで示せればなお良い.やはりモーツァルトとの出会いは,ハイドンにとって本当に大きな出来事なのだ.そしてもちろん,モーツァルトにとっても師ハイドンとの出会いは無上の価値を持っていたののである.このへんは,同じくハイドンに師事したベートーヴェンとの関係とは趣を異にする.

ハイドン:弦楽四重奏曲「皇帝」  

私が持っているのは上のアルバムである.ハイドンの67番(「ひばり」と呼ばれている),77番(「皇帝」と呼ばれている),最後はモーツァルトの17番(「狩り」と呼ばれている)の3曲である.残念ながらアマゾンには在庫が無いようである.しかしまったく同じ構成のアルバムが存在する.アマデウス・カルテットのものだ.


ハイドン:弦楽四重奏曲第67番

 このようにハイドンの録音はまだ市場では品薄だ.録音される曲目はまだまだ限られており,単発的に出されては初回を売り切って廃盤というのがパターンだ.ただこの2つについては何回か再発されているようであり,今後も細々と市場に残っていくかもしれない.いずれにしても1000円とか1200円なのでもし売っているのを見つけたら,買っておいて損はない.非常にいい構成のアルバムだ.

 ハイドンオリジナルの弦楽四重奏は68曲あるといわれている(番号は83番まで振られているが,偽作や編曲を除いたためこの数になった).しかし初期のものはディベルティメントをヴァイオリン2・ヴィオラ1・チェロ1でやるという程度の意味合いであり,確立された様式感はなかった.そのディベルティメント的カルテットの最後が「太陽四重奏曲」と言われる一連の曲集であり,これは1772年に作曲されたようだ.これはこれで対位法を凝縮させた手の込んだ曲だが,このあとハイドンは10年近く弦楽四重奏を書いていない.文字通り煮詰まったのだ.

 しかし煮詰めるなら10年でも煮詰めるのがハイドン.1781年にはその後100年つづく弦楽四重奏の歴史の原点となる曲集を発表している.それが1781年の「ロシア四重奏曲」であり,この一連の6曲により,古典派以降の弦楽四重奏の様式が決定されたというのが定説である.

 この曲集の革新性に一番衝撃を受けたのがモーツァルトであり,彼はその衝撃を元に必死にこの曲を学習.その後2年という彼にしては非常に時間をかけた推敲を経て,「ハイドンセット」と呼ばれる6曲のカルテットを作曲している.そしてまるでキャッチボールであるが,このハイドンセットに一番衝撃を受けたのが,この曲を献呈されたハイドン自身である.上に紹介したレオポルトへの言葉は,このハイドンセットを直接聞いたときの讃辞であるとされる.今で言うならば松阪VSイチローのような頂上対決であり,余人の乱入を許さない高度な技術・感性の応酬であった.

 このアルバムに収められているモーツァルトの17番は,まさに6曲の「ハイドンセット」の中の一曲である.聴いてみると分かるが,極めて抑制されたモーツァルトだ.めくるめく半音階進行,中途半端な期待をあざ笑うかのような転調,ほとばしる楽想や無尽蔵なまでの推進力といった,これこそモーツァルトといった節回しはほとんど聞き取れない.彼はまさに命がけで(だいたい彼の作曲はつねに命がけだが)ハイドンに学び,その革新性を120%自分のものとしたのだ.

 10年の構想,30年以上のキャリアを易々と乗り越えてくるモーツァルトの才能に,畏怖の念を抱いたのは間違いないだろう.しかしハイドンはやはりハイドンである.モーツァルトが得意とするオペラなどの作曲はやめてしまったが,シンフォニーとカルテットはモーツァルトと出会ってからも,そして彼の死後も書き続けた.始祖としてのプライドという単純な理由ではない.このジャンルに限っては,モーツァルトにも決して負けない,それ以上に善し悪し・勝敗を気にもとめない楽想が止めどなくあふれ出ていたのだろう.やはり天才モーツァルトが崇拝したハイドンが到達した高みは,伊達ではないのだ.

 ここはハイドンの剛速球に対し完璧なセンター返しをしたモーツァルトの打球に,ハイドン自身がどう対応したかを見てみたい.たとえば67番の「ひばり」第2楽章である.このアダージョと,モーツァルト17番のアダージョを聞き比べて欲しい.確かにモーツァルトの着想やテーマの非凡さは突出したものだ.しかしここではあえて言いたい,ハイドン67番アダージョの心温まる歌・重厚な和声進行はモーツァルトをも超えていると.

 最晩年の1796年ころに作曲された77番「皇帝」.これは第2楽章の変奏曲が「皇帝賛歌」と呼ばれるメロディーを主題にしていることからそう呼ばれるわけであるが,おそらくヨーロッパフットボールの愛好家であれば(あるいはそうでなくとも)必ず知っている曲だ.この第2楽章は現在ドイツ共和国の国歌となっている.時に人を鼓舞し,また暖かく癒す慈愛に満ちている.そしてフィナーレだ.まるでモーツァルトばりの半音階進行,意外な転調,加えて太陽四重奏曲からしつこく追求されている対位法的旋律の絡み,ほとばしる楽想,圧倒的な推進力.これはもちろん67番のフィナーレでも感じ取ることが出来る.

 人生をかけた研鑽は,どんな天才にも屈しない至上の愛を伝える.ハイドンの弦楽四重奏にこめられた思いをこう受け取らざるを得ない.

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 もう一つ紹介しよう.これはこれからもずっと手に入れることができる不滅の名盤となるだろう.トルコ出身の奇才ピアニスト/作曲家,ファジル・サイがつい最近録音したハイドン・ピアノソナタ集である.いずれ述べることになると思うが,ハイドンのピアノソナタに一番影響を受けたのはモーツァルトよりもむしろベートーヴェンだろう.

サイ(ファジル), ハイドン
ファジル・サイ、ハイドンを弾く!

 ごく最近聴いたからかもしれないし,あるいはずっと無理なのかもしれないが,私はこのアルバムから受けた衝撃をまだ全然処理することが出来ない.感嘆と涙しか出てこない.それゆえ申し訳ないが,この衝撃を与えてくれたサイに敬意を表し,このアルバムのノーツを全文掲載してこの回を結びたい.

 ハイドンの音楽が聴く者の心に触れるのは,そこに深い愛,それも人間愛があるからだと私は思っている.それは,ハイドンが作品の中で我々に伝えようとしているのが,人間とその物語であることからも分かる.たとえば,子供を例にとってみよう.僕は時々,ハイドンの音楽から,二人の小さな女の子が庭で遊んでいるような印象を受けるのだが,ハイドンはそこに,少女たちの会話や歓声,泣き声や音楽への反応まで盛り込んでいるのだ.そう,間違いないと僕は思っている.ハイドンの創作意欲を刺激したのは,幸福だとか,齢を重ねた人間の円熟味などだけでなく,夢,動物,自然,昼や夜など…そのすべてが作品の中に感じられる.ベートーヴェンのピアノ・ソナタの傑作群からは,彼がハイドンのソナタから実に多くのことを学んだことが明らかに見て取れるが,それももっともだと思う.

 ハイドンの音楽表現の本質とは人生だ.ハイドン自身の人生,あるいは現代の我々の人生,また演奏者や聴衆の人生であれ何であれ,ハイドンの音楽の中で我々はリアルにして様々な人生に出会う.今回録音したソナタの一曲一曲,楽章の一つ一つにも,背後に小さな物語があるのが感じられる.そして,私たち演奏者は時々,自分の想像力によってこの物語を発見し,作品に隠されたユーモアや皮肉などを見つけて引き出さなければならない.

 時には,作曲家の「武器庫」である頭の中の一番クレイジーな要素が出てくると,まるで周りの人々や状況などの”退屈さ”に怒っているような感じに見えることもある.

 こうして音楽は言葉を伴わない秘密の物語となるのだが,常にそこには聴き手に対する何らかのメッセージがあるのだ.