せっかく患者さんのことを気にせず寝られるはずなのに、寝られない。すこし興奮している。こんなときに文章なんて書いてはいけないのかもしれないが、調子に乗って本音以上のことがでてしまうのもこういうときです。少し書いてみよう。


アーティスト: グールド(グレン), バッハ, ペイジ(ティム)
タイトル: バッハ:ゴールドベルク変奏曲-メモリアル・エディション-

前回の「あこがれのピアニスト」トラックバックで、はじめは「カペル・リパッティ・グールド」にしようとした。しかしリパッティまでで止まってしまった。グールドはちょっとやそっとでは書けない、もっと腰を落ち着けないと書けないと思ってしまうからだ。しかし腰を落ち着けたらそれはそれでたぶん書けなくなるだろう。腰を落ち着かせた瞬間、膨大な情報が目の前に居座ることになる。

言うまでもないことだが、グレングールドは突然変異体で、異端児だ。彼は音楽の歴史に突如として現れ(しかもカナダだ!カナダ人を馬鹿にしているわけではないが)、台風の目となったにもかかわらず(あるいはだからこそ)、ほとんどだれも彼のことをわからぬままにあっというまにいなくなってしまった。当然、その後を受け継ぐものなどいない。

グールドについて、なにかがすごいとか、なにがだめだとかそういう批評はあまり意味をなさない。たとえば私はウイリアム・カペルが当代随一のピアニストであると思っているが、グールドより優れているのか、あるいは劣っているのかなど、考えたこともない。他のピアニストとの比較の中に、彼はいないのだ。かといって絶対的な存在というわけでもない。あるいはリパッティのように伝説が多すぎて、まともな評論に耐えられないという事情がないわけではない。

グールドは特別だ。特別で、しかも危険だ。たとえばプロのピアニストに「グールドってどう?」と聞くのは、かなり危険な質問になる。それは政治家にむかって「小泉純一郎ってどう?」とか「田中真紀子ってどう?」と聞くのに似ている。二人ともポピュリズムの権化だし、圧倒的な支持率を誇っている。小泉はなんと言われようとも、ほとんど常に支持率は3割を超えていたのだ。100%に近かったこともある。しかもそれを4年も続けた。アメリカ大統領だって、戦時下でもない限りここまでの支持率維持は困難だ。

はっきりいって数字を見るまでもなく、彼は天才的な政治家だ。政敵はほとんどすべてつぶされている。そしてだれも、小泉に真っ向から勝負することはない。席を立って暴露本を書くのが関の山だ。こんな人間を、同じ時代に生きる政治家が評論できるだろうか。小泉をどう評価するかというのは、現代政治家にとって一つの試金石になっている。昔の政治家が、おまえは保守(右)か革新(左)か、という選択を迫られたのと似ていて、この質問でその人の政治家としての立場が決まってしまうのである。

グールドってどう?と聞かれ、別にたいしたこと無いよ、などと答えてしまったら単なる馬鹿だ。かといって「すごいピアニストですよね」などと答えても単なる阿呆だ。なにか言及しなければならない。しかも陳腐でなく。



なかなかグールドのことが書けない。ふらふら周りばかりをうろついている。素人なんだから怖がることはないはずなのに、妙な自意識が邪魔をしているのだろう。こんな私だってグールドのレコードは数枚しか持っていない。ゴルドベルグの新旧の録音・イギリス組曲・パルティータ・インヴェンション・シンフォニア・リスト編曲「運命」・ベートーヴェンソナタいくつか・皇帝、そのくらいである。あとショパンの3番をラジオで聞いたことがある。あれはあれで衝撃だ。

バード&ギボンズのヴァージナル曲集は聞いてないし、いくつかの室内楽も聞いていない。現代もほとんど聞いていない。これらはかなり重要なレパートリーだ。だからトータルに論じることなどできるわけがなく、そういう意味で何を言っても大丈夫なはずだが、そうはならない。いずれにしてもゴルドベルグは、象徴的である。かれはこの録音でデビューし、新録音をリリースして数日後に亡くなった。

アリア・ダ・カーポ。

言いたいことはたくさんあったはずだ。全部言い切れたのだろうか。いつも大きな声で歌いながら録音をしていた(これをリマスターするのにものすごい苦労をしたらしい)。

ピアノは不自由な楽器といい、かといってピアノ以外の楽器は弾かず(オルガンは弾いたけど)、彼にとっての理想がなんだったか、わからない。ひょっとしたら指揮者でもやらないかぎり、彼の言いたいことは尽くされなかったのかもしれないが、彼に指揮者は無理だ。誰もついてこないし、誰も理解しない。



これがグレン・グールドだ。